手燭で照らされた部屋に、小さな溜息が落ちた。

 そこだけ洋風の物で溢れた空間で、慎司は吸いかけた息を詰め、立ち上がり、身をそらすようにして目の前の物を眺める。
 キャンバスにかけられた一枚の大きな絵は、町の風景を描いたものだった。月の光に照らされ、闇に沈み、同時に淡く瓦斯灯に照らされた町並み。自然の風景と、割り込むものとの均衡。

 人物はあまり描かないことにしていた。描きたいと思うほどの人もなく、題材も見つからなかった。
 そしてもし描いたなら、自分の心の中の、人に対する暗い思いが余すことなく表れてしまいそうな気がした。決して明るいとは言えない思いを自分で暴き出してしまいそうで、それは自分でも気味がいいとは思えなかった。
 だから、綾都のことは決して描かない。

 再び息を吐き、慎司は筆を置いた。思ったよりもうまく進んだ絵を見て、少し頬に笑みを浮かべる。
 気がついたら夜が更けている。描いている時は、打ち込むあまりに時間を忘れることが多かった。今日はもう休もうと立ち上がる。

 洋服の上にまとっていた、絵の具で汚れた布を脱いで、背もたれに丁寧にかける。明かりを消して部屋を出た。寝る前に綾都の様子を見ようと、彼の床が敷かれている部屋へ向かう。

 慎司のいた部屋の、すぐ隣り。物音も聞こえず、女中の声もなく、綾都はめずらしく、大人しく部屋にいるようだった。

「綾、具合はどう」
 襖の前に立ち、声をかける。返答がなかった。木板の長い廊下で所在なく首を傾けて、慎司はもう一度声をかける。やはり声は返らない。

「綾都」
 無視をしているだけなのだろうか。もう眠ってしまったのだろうか。
「入るよ」

 それとも、気づかない間に外にまた出かけてしまったのだろうか。訝しみながらも、慎司はそっと襖を開けて部屋の中へ足を踏み込んだ。

 隙間から差し込む月明かりに照らされて浮かび上がる。敷かれている布団には、人が入っている膨らみがあった。
 戸口の方、慎司の側へ背を向けて横たわっている人の姿が見えた。掛け布団がずれて、横向けに伏している綾都の肩が出ている。

 なんだ、寝てしまっていたのか、と胸をなで下ろした。畳の上、音をたてないように布団へ近づいていく。
 綾都の横、背の後ろに膝をついて、身を屈めた。少し笑み、慎司はそっと丁寧に、布団を引きずり上げた。

 手が、綾都の肩に触れる。そして指先が違和感を拾い上げる。

 外気に触れて冴えた肩からは、吐息の気配がない。身じろぎがないのはともかく、微かに上下して息を吸う、寝息の気配すら感じられない。

 何となくただ不思議に思って、今度は掌を肩に乗せた。
 異様に冷えている。冬もようやく終わる兆しが見え始めたばかりだ、寒いからだろうとは思う。体に毒なのに、と思うが。

 あまりに、冷たすぎる。
 堅く強張っている。寒さか恐怖にか、息を詰めて、身を縮こませているかのようだった。
 ――悪夢でも見ているのか。

「綾都」
 起こさないようにと配慮していたのも忘れて、声をかける。上擦った声が出た。自分でぎくりとする。

 ――ちがう。
 自分の声に含まれる恐れを否定する。それに思い至る自分を、意識の中で叱り付ける。

 違う、まだ決めつけるな。
 背を向けたままの綾都の、布団の上に投げ出された片手、固く握りしめられた拳に、身を乗り出して触れた。冷たい。

 これが人の手だろうか。氷のようだ。夜の藍に染まった、華奢な氷細工のようだ。あり得ない、信じられない。信じたくない。
 避けていたい事態に、目の前が揺れた。血の気が引いて、慎司の指先までもが、同じように冴えた。

 息がうまく吸えない。浅く早く繰り返す呼吸を宥め、抑えて、背けられた顔を覗き込めば、綾都の顔はとても穏やかな表情を浮かべていた。
 瞳を閉じて眠っている。ただ、眠っている。
 寝息もたてずに。

「綾都」
 呼びかける声が震えた。綾都の手を握る慎司の手が、大袈裟なほどに揺れていた。

 たどたどしい動きで、綾都の肩を揺する。起こさないと。
 そんなはずはない。まだその時期じゃない。あり得ない。否定する言葉を、ただただ並べ立てながら。

 けれど、声をかけられて、手に触れられて、揺さぶられて、それでも彼は目を覚まさなかった。瞼は閉ざされたまま、震える気配すらない。
 そんなはずはない。

 死に至る病だと知っていた。今の医療では治らないと言われていた。覚悟するようにとも。
 けれども、それは、もっと先のはずだ。まだまだ、ずっと先の話のはずだった。

 綾都の病は、衰弱が激しくなり、末期になれば立つこともできなくなると言われていたのではなかったか。
 死ぬときには、これ以上ないほどに苦しんで、苦しんで、悶えて死んでいくのだと。かつて同じ病の者を見たことがあるが、目を背けたくなるような、苦悶を浮かべた死に顔だったと、医師は言っていた。
 祖父はどうだったか思い出そうとする。だが分からない。知ろうともしなかった。

 でも、綾都は。彼はまだ、つい最近まで走り回って、外へ出掛けたりもしていた。
 近頃は表へ出る前に、慎司が見つけて連れ戻すことの方が多かったが。そんな考えに至って、ぎくりとする。でも。

 今の彼の、この顔の、どこに苦悶の痕があるというのだろう。

「ばか」
 綾都が少しでも苦しんで声を上げれば、暴れていれば、慎司は気がついた。どんなに小さな声でも呼んでくれれば、駆けつけた。何をしていても、自分がどうなっていても、絶対に。

 なのに綾都はただ、静かな顔を床に押しつけて、眠っている。

 どうして。どうして気がつかなかったのだろう。彼が苦しんでいることを察して、駆けつけられなかったのだろう。
 心臓が止まって、それでもしばらくは温もりが残るものなのに、こんなに冷たくなるまで気がつかなかったなんて。
 ひとりで、放っておいたなんて。

「……ごめんね、綾都、ごめんねぇ」
 病み衰えた細い肩に額を押しつけて、つぶやく。
 涙が、綾都の衣服に、透明な染みを広げていった。声が揺れて、悲しく響く。
 ――――綾都。


 二人きりで、生きてきた。