「おかげで、思ったより早く発てそうだし」
「腹ごしらえしてからね」
 苛々しているのを隠しもしない声で、凜が柾の後を継ぐ。
 柾は目を丸くして、会話をしていた少年から、凜の方へ視線を移動させる。

「まだ食べる気か」
「甘いものとご飯は別腹。だいたい、山越え終わるまで、食料調達なんて出来ないのに、しっかり食べもせずに行くつもりじゃないよねえ」
 柾の不幸を楽しみながら散々食べていたはずの凜は、何の文句があるか、と胸を張って言う。しかも、その後半の言葉には一理あった。

「まあ言われてみると、俺も腹減ってる気がしてきたから、その辺は後でじっくり話し合うとして」
 宥めると言うよりは、とりあえず半分納得の声で言ってから、柾はくるりと少年の方へ向き直った。

「それで」
 会話の流れから、自分に再び話題が戻ってくると思っていなかった少年は、今度はきょとんとした顔で柾を見上げた。
「何か用があったんだろ」
「別に、用なんてないけど。変な奴らだなと思っただけで」
「ふうん」
 それでついてきたのか、と柾の相槌には言外に含まれている。放蕩、と噂されてしまうのも仕方ないかもしれない。

 綾都は少し中空に目をさまよわせ、考えるような仕種を見せると、唐突に柾へ視線を戻して言った。

「泊まるところあるのか」
 問われて、柾はきょとん、とした顔をする。その表情を見て、少年の方も、ぽかんとした顔をした。柾が何か言う前に、呆れた声を出す。
「もしかして本当に、今から腹ごしらえをした後で、山を越えるつもりなのじゃないだろうな」
「何か問題でもあるのか」
 問いかけに対して逆に、何の不思議も抱いていない質問を返されて、少年は更に力の抜けた表情になった。

「こんなに間抜けな旅人がいるとは思わなかった」
「そんなにまずいかな」
「今日中に山を越えたきゃ、腹ごしらえなんてのんきな事言っている間に、さっさと出発するのだな。今からなら、ぎりぎり夜が更ける前に向こうっ側に辿りつけるかも知れない」
「この山って、そんなに大きかったかな。あまり覚えてないけど」
「前にも来たことがあるのか」
「随分と前にね」
 自分と変わらない年頃の柾に、随分と前、などと言われたからか、綾都はいぶかしげな表情をした。

「なら、知っているだろうが。この町を囲む山はどちらも、結構険しいことで有名で、夜になってからの移動は命取りだ。山で一夜過ごすにしても、ここの所有者が言うには情けないことだが、そんなに治安がいいとも言い難い」
 山に囲まれた町のこと、人々が先を急ぐ理由を知ってはいたが、「命取り」とまで言われるほど深刻だとは思っていなかったのだろう。さすがに柾は少し困ったようだった。

「うーん、そうかあ。ちょっと難儀しそうだなあ」
 宿かあ、と声を出す。問うように凜を見るが、凜は会話に興味を失っている。
 別に急ぐような用事も無いが、山の中で夜を過ごすことになっても、別に頓着しない。それ以前に、柾には財布が無いが。

「なんだったら、うちに泊めてやってもいい」
「は」
 少年からの唐突な提案に、柾はぽかんとした顔をして、少し間抜けな声を出してしまった。

「なんだよ」
 ぶすっと脹れた顔をして少年は不機嫌な声を出した。茶店の主人に向けたような表情ではなく、思い通りに物事が進まなかったときの少年そのものの顔だった。くるくるとよく表情が変わる。

「不満なのか。子爵様の家だ、そこいらの高級旅館など足元にも及ばない。お前ら、飯だって部屋だって寝具だって、一生できないような贅沢だ」
「いや、そういうことではなくて」
 困ったように柾が言う。

「人とあんまり関わりあいになるのは、困るんだ。覚えられちゃったら、あと五十年はここに来られないから」
「なんだそれ」
 綾都が眉を吊り上げて、柾を睨み付けた。柾が、しまった、という顔をする。少年には冗談が通じなかったらしい。その横で、凜が飄々と言い返す。

「駆け落ち中だから、人に顔覚えられるの歓迎できないんだよねえ」
 断る口実とも冗談とも、本気ともとれない、得意満面だった。

「いや、だから凜は、人に誤解されるからそういうことを言うなって、いつも言ってるでしょう」
 柾は困ったように、小さく息を吐く。

「それはともかく、お前さん無用心だろう」
「なんだよ、遠慮しているのか。俺が言っているのだから、気にする必要ない」
「いや、そうではなくて……」
「うちの財産なんて勝手に持って行けばいいし、俺だって慎司だって、勝手に殺して逃げればいい」

 まるで分かっていないような綾都の言葉に、無用心だ、と重ねて言おうとした柾の先を制して、少年は言った。
 危険に気がついていないのかと思っていたが、そうではなかった。相変わらず高飛車で、陽気な表情のままだったが。