ある日の夕方。
もう今日はこのまま店じまいだろうかと考えていると、エプロンのポケットに入れていたスマホが震えて、琴音は掃除の手を止めた。
画面を見ると、花代からの着信だとわかる。何か急用であってはいけないからと、一応店の奥に行って受話ボタンを押した。
「うん、今終わったところ。お野菜? 欲しい欲しい! じゃあ、店閉めたら寄らせてもらうね」
電話の内容は、野菜を知り合いにたくさんもらったから仕事の帰りに取りにおいでという誘いだった。
「どこかに行くのか?」
「はい。おばちゃんが野菜を取りにおいでって。地元の穫れたて野菜だっていうので、もらいに行こうと思って」
「花代さんか。今ひとりも客は入ってないし、今日はもう閉めていいんじゃないか」
電話の内容を聞いていたらしい九田が、そんなやる気のないことを言った。いつもなら呆れるところだけれど、今日はありがたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらいますね。……もしかして、もらったお野菜を食べたかったりしますか?」
「いただけるなら、ぜひご相伴に預かりたい」
何となくそわそわしているのを感じ取って言ってみると、九田はあからさまに嬉しそうにした。きっとこうして誘わなくても勝手に夕飯を食べに来たのだろうけれど。琴音のほうからきちんと誘ったのは、これが初めてだった。
「もらえる野菜次第ですけどたぶん夏野菜カレーにすると思います。何か、入れて欲しくないものとかありますか?」
「トマト」
「まだ赤いもの克服できてないんですか?」
「トマトは……赤いから嫌いなわけじゃなく、単純に味と食感がだめなんだ。ちなみにトマト缶を使った料理やケチャップは平気だ」
「普通にトマト嫌いな人あるあるな発言ですね」
「あと、肉は豚肉がいい。夏野菜に合えば、でいいんだが」
「わかりました」
閉店作業を早めに済ませて、琴音は花代のところに向かうことにした。夕食をごちそうするのと引き換えに店主公認の早引きだ。
これが以前なら、嫌いな野菜を尋ねることなどしなかっただろうし、肉の種類をリクエストされても聞き入れることはなかっただろう。
でも今は、たまにそのくらいのわがままを聞いてやってもいいと琴音は思っている。
離婚したばかりの頃、琴音は料理をすることができなくなっていた。正確に言うと自分で作った料理を食べることや、誰かに食べさせることが。
それは、元夫に不倫されていたことと、その不倫相手に家に上がり込まれて勝手に料理を捨てられたことが原因だった。
離婚しても、新しい生活が始まっても、料理に対して抱いてしまった苦手意識みたいなものはずっと残るのではないかと思っていた。でも押しかけてくる九田に料理を振る舞ううちに、そんなことはいつのまにか気にならなくなっていた。意識して克服したのではなく、気がつけばどうでもよくなっていたのだ。
一時期は、二度と男に食事など作るものかと思っていたのに、今では食べさせてもいいかなくらいの気持ちにはなっている。
傷を乗り越えたとかトラウマを克服したというような大層な感覚はないけれど、気にするようなものは何もなくなっていた。
それもこれも九田のおかげだと思えば、少しくらい要望を聞いてやることくらいなんでもない。
「おばちゃん、来たよ」
「よう来たね。迎えに行かんでごめんね」
「ううん。このくらいの距離、歩けるよ。こっちに来てから歩きでの活動範囲が広がったし」
「都会と違って、歩かんとどこにも行けんからね。でも、体が鈍らんでいいでしょ」
「それは本当にそう! 健康になったよ」
喫茶丸屋から歩いて三十分ほどで花代の家に着く。玄関先で野菜の選別をしていた花代がすぐに出迎えてくれ、そんな感じの軽い会話をかわす。
考えてみると、ここに来たばかりのときは離婚してすぐということもあって、花代にもずいぶんいたわられていた。その証拠に、あまり他人のお見合いや結婚の話を耳に入れないようにされていたし、何より琴音に進めるようなことはなかった。若い男女の縁を結んで回るのが生きがいのような人物が、だ。今となれば、かなり気遣われていたことに気づく。
「わあ、こんなにたくさん! ありがとう。何にして食べようかなぁ」
「食べ切れんかったら、ナスもズッキーニもぬか床(どこ)に入れとったら漬物になっておいしいよ」
「ぬか漬け、いいなぁ。でも、余らないかも。九田さんがたまに食べに来るから、食材を無駄にせずに済んでるんだよね。……あ」
言ってから、琴音は何となく恥ずかしいことを言ったのではないかと気がついた。案の定、花代はそれを聞き逃さず、ニマニマと楽しそうな顔をしている。
「九田さんと、仲良くしとるんやね。よかったよかった」
「仲良くっていうか……よくしてもらってるし、押しかけてくるから食事を振る舞ってただけだよ」
「やっぱり私の見立ては正しかったねぇ。合うやろうってわかっとったんよ」
「見立てって?」
花代がなぜかしたり顔をしているのが、琴音は気になった。九田と琴音が親しくすると、どうして花代が誇らしげにするのだろうか。
「なんでって、そりゃあねぇ……琴音ちゃんがあのとき断ったお見合いの相手って、九田さんだもの」
「え……!?」
琴音は信じられなくて、思わず野菜の入った袋を落としそうになった。しかし、どうにか踏みとどまって落ち着きを取り戻すと、いろいろ腑に落ちることが出てくる。
「……知らなかった。だからか、お見合いのことを口にすると、妙な顔をされてたの……」
「もう一回セッティングしてもよかったんやけど、まあお店で顔を合わせるうちにうまくいくならいくだろうって放っておいたんよ。でも、本当に思った通りになってよかったわ」
「そんなことが……」
花代はほくほくとしているけれど、琴音はどんな顔をすればいいのかわからなかった。嫌だとか困っているというわけではないものの、こういうときにするべき適切な反応がわからない。
自分の感情を、持て余してしまっているのだ。
「じゃ、じゃあ、おばちゃん、ありがとう。……今度何か美味しいお菓子でも持ってくるね」
「ええよええよ。お休みの日は、若い人はデートとか大事な用事があるやろうけ」
まるで縁組みがうまくいったかのような上機嫌の花代に見送られ、琴音はもと来た道を歩き始めた。これから、家へ帰るのだ。そして夕飯を作って、それを九田に振る舞う。
実現しなかったお見合いの相手だったと知らされなければ、ただ一緒に夕食を食べるだけで済んだはずだ。
でも知ってしまった以上、これまでみたいに振る舞う自信は琴音にはなかった。
だから、アパートに帰り着くまでに気持ちを落ち着けようと思っていたのに、心をかき乱している存在のほうからやって来てしまった。
「九田さん……」
「まだ帰ってなかったから、こっちの道かと来てみたんだ。荷物が重いなら、持ってやらなければと思ってな」
「あ、ありがとうございます……」
九田が現れたことにも、ごく自然に野菜の入った袋を持ってくれたことも、予想外で琴音はすぐに反応できなかった。何より、心の準備がまだできていないのに顔を合わせてしまったのが、琴音としてはまずかった。
これまで意識したことなどなかったのに、もう意識せずにはいられないかもしれない。
花代にお見合いの話をされたときにもしも琴音がフリーで、そして九田と実際に顔を合わせていたら……きっと悪い印象は受けなかっただろうから。
でも、結婚に失敗して、やさぐれてから出会った今だからこそ、彼の魅力をきちんと理解できているかもしれないとも思う。
「あ……」
アパートに向けて二人で並んで歩いていると、九田の右手の糸の先に、クダギツネがぶら下がっているのが見えた。そして自分の右手を見ると、そこにもクダギツネがいた。
クダギツネは琴音が見ていることに気がつくと、小さな手でサムズアップをしてみせた。「縁、繋いどこうか?」という意味だろうか。どういう意味かわからないけれど、九田と琴音が並んで歩いているのを楽しんでいる様子だ。
九田の右手小指から伸びる糸も、琴音の右手の糸も、まだ結ぶには長さが足りないように見える。これから待てば伸びるのか、それともこのままなのか。
「結ぶのは、まだ先ね」
クダギツネにだけ聞こえるようにと小声で囁いて、琴音は少しだけ九田との距離を詰めて歩いた。
〈完〉
もう今日はこのまま店じまいだろうかと考えていると、エプロンのポケットに入れていたスマホが震えて、琴音は掃除の手を止めた。
画面を見ると、花代からの着信だとわかる。何か急用であってはいけないからと、一応店の奥に行って受話ボタンを押した。
「うん、今終わったところ。お野菜? 欲しい欲しい! じゃあ、店閉めたら寄らせてもらうね」
電話の内容は、野菜を知り合いにたくさんもらったから仕事の帰りに取りにおいでという誘いだった。
「どこかに行くのか?」
「はい。おばちゃんが野菜を取りにおいでって。地元の穫れたて野菜だっていうので、もらいに行こうと思って」
「花代さんか。今ひとりも客は入ってないし、今日はもう閉めていいんじゃないか」
電話の内容を聞いていたらしい九田が、そんなやる気のないことを言った。いつもなら呆れるところだけれど、今日はありがたかった。
「じゃあ、お言葉に甘えてそうさせてもらいますね。……もしかして、もらったお野菜を食べたかったりしますか?」
「いただけるなら、ぜひご相伴に預かりたい」
何となくそわそわしているのを感じ取って言ってみると、九田はあからさまに嬉しそうにした。きっとこうして誘わなくても勝手に夕飯を食べに来たのだろうけれど。琴音のほうからきちんと誘ったのは、これが初めてだった。
「もらえる野菜次第ですけどたぶん夏野菜カレーにすると思います。何か、入れて欲しくないものとかありますか?」
「トマト」
「まだ赤いもの克服できてないんですか?」
「トマトは……赤いから嫌いなわけじゃなく、単純に味と食感がだめなんだ。ちなみにトマト缶を使った料理やケチャップは平気だ」
「普通にトマト嫌いな人あるあるな発言ですね」
「あと、肉は豚肉がいい。夏野菜に合えば、でいいんだが」
「わかりました」
閉店作業を早めに済ませて、琴音は花代のところに向かうことにした。夕食をごちそうするのと引き換えに店主公認の早引きだ。
これが以前なら、嫌いな野菜を尋ねることなどしなかっただろうし、肉の種類をリクエストされても聞き入れることはなかっただろう。
でも今は、たまにそのくらいのわがままを聞いてやってもいいと琴音は思っている。
離婚したばかりの頃、琴音は料理をすることができなくなっていた。正確に言うと自分で作った料理を食べることや、誰かに食べさせることが。
それは、元夫に不倫されていたことと、その不倫相手に家に上がり込まれて勝手に料理を捨てられたことが原因だった。
離婚しても、新しい生活が始まっても、料理に対して抱いてしまった苦手意識みたいなものはずっと残るのではないかと思っていた。でも押しかけてくる九田に料理を振る舞ううちに、そんなことはいつのまにか気にならなくなっていた。意識して克服したのではなく、気がつけばどうでもよくなっていたのだ。
一時期は、二度と男に食事など作るものかと思っていたのに、今では食べさせてもいいかなくらいの気持ちにはなっている。
傷を乗り越えたとかトラウマを克服したというような大層な感覚はないけれど、気にするようなものは何もなくなっていた。
それもこれも九田のおかげだと思えば、少しくらい要望を聞いてやることくらいなんでもない。
「おばちゃん、来たよ」
「よう来たね。迎えに行かんでごめんね」
「ううん。このくらいの距離、歩けるよ。こっちに来てから歩きでの活動範囲が広がったし」
「都会と違って、歩かんとどこにも行けんからね。でも、体が鈍らんでいいでしょ」
「それは本当にそう! 健康になったよ」
喫茶丸屋から歩いて三十分ほどで花代の家に着く。玄関先で野菜の選別をしていた花代がすぐに出迎えてくれ、そんな感じの軽い会話をかわす。
考えてみると、ここに来たばかりのときは離婚してすぐということもあって、花代にもずいぶんいたわられていた。その証拠に、あまり他人のお見合いや結婚の話を耳に入れないようにされていたし、何より琴音に進めるようなことはなかった。若い男女の縁を結んで回るのが生きがいのような人物が、だ。今となれば、かなり気遣われていたことに気づく。
「わあ、こんなにたくさん! ありがとう。何にして食べようかなぁ」
「食べ切れんかったら、ナスもズッキーニもぬか床(どこ)に入れとったら漬物になっておいしいよ」
「ぬか漬け、いいなぁ。でも、余らないかも。九田さんがたまに食べに来るから、食材を無駄にせずに済んでるんだよね。……あ」
言ってから、琴音は何となく恥ずかしいことを言ったのではないかと気がついた。案の定、花代はそれを聞き逃さず、ニマニマと楽しそうな顔をしている。
「九田さんと、仲良くしとるんやね。よかったよかった」
「仲良くっていうか……よくしてもらってるし、押しかけてくるから食事を振る舞ってただけだよ」
「やっぱり私の見立ては正しかったねぇ。合うやろうってわかっとったんよ」
「見立てって?」
花代がなぜかしたり顔をしているのが、琴音は気になった。九田と琴音が親しくすると、どうして花代が誇らしげにするのだろうか。
「なんでって、そりゃあねぇ……琴音ちゃんがあのとき断ったお見合いの相手って、九田さんだもの」
「え……!?」
琴音は信じられなくて、思わず野菜の入った袋を落としそうになった。しかし、どうにか踏みとどまって落ち着きを取り戻すと、いろいろ腑に落ちることが出てくる。
「……知らなかった。だからか、お見合いのことを口にすると、妙な顔をされてたの……」
「もう一回セッティングしてもよかったんやけど、まあお店で顔を合わせるうちにうまくいくならいくだろうって放っておいたんよ。でも、本当に思った通りになってよかったわ」
「そんなことが……」
花代はほくほくとしているけれど、琴音はどんな顔をすればいいのかわからなかった。嫌だとか困っているというわけではないものの、こういうときにするべき適切な反応がわからない。
自分の感情を、持て余してしまっているのだ。
「じゃ、じゃあ、おばちゃん、ありがとう。……今度何か美味しいお菓子でも持ってくるね」
「ええよええよ。お休みの日は、若い人はデートとか大事な用事があるやろうけ」
まるで縁組みがうまくいったかのような上機嫌の花代に見送られ、琴音はもと来た道を歩き始めた。これから、家へ帰るのだ。そして夕飯を作って、それを九田に振る舞う。
実現しなかったお見合いの相手だったと知らされなければ、ただ一緒に夕食を食べるだけで済んだはずだ。
でも知ってしまった以上、これまでみたいに振る舞う自信は琴音にはなかった。
だから、アパートに帰り着くまでに気持ちを落ち着けようと思っていたのに、心をかき乱している存在のほうからやって来てしまった。
「九田さん……」
「まだ帰ってなかったから、こっちの道かと来てみたんだ。荷物が重いなら、持ってやらなければと思ってな」
「あ、ありがとうございます……」
九田が現れたことにも、ごく自然に野菜の入った袋を持ってくれたことも、予想外で琴音はすぐに反応できなかった。何より、心の準備がまだできていないのに顔を合わせてしまったのが、琴音としてはまずかった。
これまで意識したことなどなかったのに、もう意識せずにはいられないかもしれない。
花代にお見合いの話をされたときにもしも琴音がフリーで、そして九田と実際に顔を合わせていたら……きっと悪い印象は受けなかっただろうから。
でも、結婚に失敗して、やさぐれてから出会った今だからこそ、彼の魅力をきちんと理解できているかもしれないとも思う。
「あ……」
アパートに向けて二人で並んで歩いていると、九田の右手の糸の先に、クダギツネがぶら下がっているのが見えた。そして自分の右手を見ると、そこにもクダギツネがいた。
クダギツネは琴音が見ていることに気がつくと、小さな手でサムズアップをしてみせた。「縁、繋いどこうか?」という意味だろうか。どういう意味かわからないけれど、九田と琴音が並んで歩いているのを楽しんでいる様子だ。
九田の右手小指から伸びる糸も、琴音の右手の糸も、まだ結ぶには長さが足りないように見える。これから待てば伸びるのか、それともこのままなのか。
「結ぶのは、まだ先ね」
クダギツネにだけ聞こえるようにと小声で囁いて、琴音は少しだけ九田との距離を詰めて歩いた。
〈完〉