帰宅した琴音は、何だかいつもより疲れている自分に気づいて溜め息をついた。特にお客さんが多かったということはないから、おそらく閉店前に来たあの女性が疲れの原因だろう。
 というより、彼女の存在によって自分の結婚と離婚を振り返ったことがいけなかったようだ。
 実家で飲んだくれて泣き暮らしたときと比べ、かなり回復はしている。それでもやはり、もっと違った道はなかったのだろうかと考えてしまうのだ。そういった後ろ向きな想像は精神を削るとわかっていても、どうしてもやめられない。
 夕食の支度に取りかかりながらも、「もし過去に戻れるのなら」なんてことを考えてしまっていた。
 もし過去に戻れるのなら琴音は、間違いなく元夫との結婚を止めるだろう。当時は好きだったからこそ結婚したものの、振り返れば合わないところだらけだったのだ。
 元夫が手料理を喜んで見せるから張り切って作っていたけれど、彼は手料理が嬉しいのではなく、琴音が自分のために手間と労力をかけることに喜びを見い出していたのだとあとから気がついた。
 共通の趣味がないのは別段問題ではなかったものの、常識というか、善悪の判断基準が一致していないのも問題だった。信号を守るだとか、ゴミをきちんと分別するだとか、些細なことでもその人の人間性や倫理観は現れる。彼とはそういう部分の考え方が、ことごとく合わなかった。
 もとより、不倫なんかする男と倫理観が一致してたまるものかと、琴音は包丁を握りしめた。

「本当は、ご飯なんか、作りたくもないし食べたくもないけど、こんなことで食事が取れなくなるなんて、馬鹿らしいもんね!」

 力いっぱい気合いを入れて、勢いよくネギを刻んでいく。白ネギも小ネギも全部粗みじん切りにしてしまう。ネギ塩豚丼を作ろうと考えていたのだけれど、あきらかにネギを刻みすぎだ。
 でも、野菜がたくさん摂れていいかも、なんて考えて豚肉を炒め、ネギを投入し、塩ダレを絡めて仕上げていく。

「ネギが多いっていうか……単純に作りすぎ?」

 出来上がったネギ塩豚は、パッと見ただけでもわかるほどに作りすぎな量だった。……こんなときに限って、九田は食べに来ないのに。
 別れた夫との生活が抜けきれずに二人前を無意識に作ってしまったのかと思ってげんなりしたけれど、九田がよく食べに来るからその癖なのだろうと思い至った。
 九田は元夫と違ってこういった丼ものなんかの一品メニューも、美味しそうに食べてくれるからいい。元夫はカレーや丼ものは手抜きで、一汁三菜でなければ食事ではないというワガママは人間だったから、勝手に上がり込んできて何でも食べる九田とは大違いだ。

「私の赤い糸、ぶっつり切れちゃってるじゃん。……何か、ちょっと伸びたっぽいけど」

 後悔とともに作りすぎた豚丼を噛み締めていると、ふと右手の小指から伸びる糸に目がいった。常人には見ることができない、不思議な赤い糸。見えるようになった直後は離婚の影響か、ぶっつり切れた短い糸が小指から伸びているだけだったのに、今では軽く摑めるくらいの長さにまで回復している。
 糸が回復するということは、いつか誰かと結ばれることもあるのか――そんなことを考えると、琴音は複雑な気持ちになった。今はまだ、また誰かを好きになるなんてことは考えられなかった。


 その翌日。ランチタイムを過ぎた頃、ひとりの男性が喫茶丸屋を訪れた。その落ち着かなさそうな、思いつめた様子に、店内の模様替えをしていた琴音は身構えた。

「いらっしゃいませ」
「ここは、縁結びをしていると聞いてきたのですが」
「は、はい。やってますけど……」

 男性の物言いとその様子に、琴音はデジャヴを感じた。昨日まさにこんな様子の女性を接客している。

「縁結びにちなんだメニューをお出ししているんですよ」
「……コーヒーで」
「かしこまりました」

 この流れまで昨日と全く同じだぞと気がついて、琴音は居眠りをしている九田をちらりと見た。彼も何かを感じ取っているのか、片目を開けている。

「縁結びというよりも、結婚を考えている女性とちゃんと赤い糸で繋がってるか見てもらうことって、できるんですかね? ……男がこんなこと言うのは、ちょっとどうなのかなって思うんですけど」

 注文のコーヒーを持っていくと、男性は困ったような顔をしていた。この店に縁結びに来る時点で悩んでいない人などいないのだろうけれど、この人の場合は縁結びに興味を持つこと自体を悩んでいるようだ。

「男性の方でも来店されますから、大丈夫ですよ。……結婚を考えてらっしゃるということは、婚約者さんと縁が結ばれているか気になる、ということですか?」
「そうなんです。……上司の紹介で知り合った女性なんですけど、会ってすぐにこの人だ!と思って、順調に関係が進んでいったんです。でも、プロポーズして結婚の話が本決まりになってから、彼女が浮かない顔をしているのに気がついてしまって……」
「はあ……そうなんですか」

 ここまで聞いた段階で、琴音はほぼ確信していた。……昨日、似たような話を聞いたばかりだから。

「彼女と出会う前に、私は長く交際していた女性との手酷い失恋を経験していたので、周囲にずいぶん心配させてしまっていたんです。でも彼女をひと目見て、絶対に運命だって思ったから逃したくなくて……」
「そうですか。その、前にお付き合いされていた方に未練とかは……」
「ないです! 今では彼女一筋ですから」
「……なるほどですね」

 そこから男性は、いかに自分の婚約者が素晴らしい女性なのかを熱く語った。聞いてもいないのに語った。琴音が途中からげっそりしていることにも気がつかないほど熱心に語った。
 九田がどんな顔をしているだろうと振り返ってみると、彼も琴音と同じでまずいものを噛んでしまったみたいな顔をしていた。

「それだけ想っているのでしたら、きっと大丈夫だと思いますけれどね。浮かない様子なのは、マリッジブルーかもしれませんし。よろしければ、今度は婚約者の方とご一緒にいらしてください」
「わかりました。今度休みが会うときに来ます」

 気が済むまで惚気けたあと、男性は琴音に送り出されて店を出ていった。ドアを閉めてから、琴音は九田のほうを見た。

「……夫婦喧嘩じゃないですけど、犬も食わねぇって感じですよね。あの男性、絶対に昨日来た女性のお相手じゃないですか」
「いや、まあ、そうだろうが……違うかもしれないだろ」
「違ったら違ったで嫌ですよ。こじれたカップルが二組いるってことになりますからね」
「それは、面倒くさいなぁ」

 店内に客がいないのをいいことに、琴音と九田は好き勝手なことを言った。
 でも、昨日の女性と今日の男性が婚約者同士だと確信してしまっている以上、何とも言えない気分になるのは仕方がないことだと言えるだろう。

「ないとは思うが、二人が揃ってやってきたときに、糸が繋がっていないことも覚悟しないといけないぞ」
「え?」

 気を取り直して琴音が閉店業務をしようとしていると、ポツリと九田が言った。想い合っている男女の犬も食わないもだもだ話を聞かされたとばかり思っていた琴音は、その言葉に驚いた。

「どういうことですか?」
「口では何とでも言えるってことだ。どれだけ相手のことを好きだと言っても、全然違う人間と糸が繋がってるなんて組み合わせはごまんといる。だから、あの二人が来店したときに驚かないようにな」
「……わかりました」

 九田があてずっぽうなことを言っているのではないとわかったから、琴音は素直に頷いた。きっと彼は、これまで嫌になるほどそんな組み合わせを見てきたのだろう。
 琴音だって、目がこんな状態になってから、並んで歩く夫婦の糸が繋がっていないなんてものは何度か見てきた。
 だから、昨日今日来店したあの男女の糸が繋がっていないなんてことも、可能性としてはあり得るわけだ。

「だが、気にすることはない。糸が繋がってなくたってうまくいってる夫婦はいるし、糸が繋がってるからって永遠の愛が保証されてるわけじゃないからな」

 琴音の気持ちが落ち込んだのを察したのか、九田がなだめるように言った。
 そうしてなだめられても琴音の心配というかモヤモヤした気持ちは晴れなかったけれど、あの二人が来店するかどうかもわからないから、ひとまず流すことしかできなかった。


 そんな琴音の心配は、杞憂に終わった。
 その数日後、件の二人は揃って来店した。そしてその二人の右手小指から伸びる赤い糸を確認すれば、それはきちんと互いの糸に繋がっている。
 確認して脱力した琴音を見て、男性も女性もお互いがこの店に初めて来店したわけではないことに気がついた。

「いらっしゃいませ。お待ちしてました」
「え……あなたも?」
「まさか、君もここに?」

 驚いた顔をして見つめあう二人に、琴音はほっとするような呆れるような、そんな複雑な気分になった。
 とはいえ、想定していたような悪い事態ではなかったことは、純粋によかったとも思う。

「お二人とも、別々に来店してたんですよ、縁結びを目当てに。つまり、今さら縁を結ぶ必要もないくらい、お互いを思っているということです」

 珍しく客の前に姿を現した九田が、何を思ったのかそんなことを言い出した。日頃は置物のように動かないくせに、今日に限って一体何を考えたのだろうか。
 九田の登場に驚いている琴音と違い、件の男女は嬉しそうにした。でも、そんな二人に九田は少し悪い顔をする。

「とはいえ、赤い糸の結びつきは絶対じゃない。結婚前に強固な結びつきとなるよう、しっかり話し合っておくべきじゃないんですか? まずはお互い、ここで何を依頼したのか打ち明けてみては?」
「それなら、前回来たときに頼まなかった縁結びにちなんだメニューをお願いします!」
「あ、はい……」

 九田は本当は脅すつもりで言ったのだろうけれど、幸せな男女にそんな言葉は通用しなかった。この店の人間だと認識され、挙げ句注文を言いつけられてしまい、すごすごといつもの定位置まで逃げ帰っていった。
 だから仕方なく、いつものように琴音が注文を取った。二人は、ちょうど今日から出されるようになったイチゴのスイーツと、縁結びメニューの中で人気のパスタセットを注文して、仲良く分けて食べていた。
 そして、ひとしきり会話と店の雰囲気を楽しんでから、幸せオーラを振りまきながら帰っていった。
 無事に落ち着くところに落ち着いて、本当なら純粋に喜ぶところなのだろうけれど、二人が帰ったあと、何となく琴音も九田も疲れていた。

「……どうだ、赤い糸なんてくだらないって少しはわかったんじゃないのか」

 いつもなら否定する琴音だけれど、このときばかりは小さく頷いてしまったのだった。