――その音が聴こえてきたのは、開いて持っている文庫本の、右手の割合のほうが厚くなり始めた頃だった。
 美しく伸びた和音(わおん)は、俺の鼓膜(こまく)を優しく()でるような音色だ。

 ピアノの旋律(せんりつ)がカフェ全体を包み込む。読書に耽っていた人、友人と会話の花を咲かせていた人、パソコンでなにやら作業をしていた人、そんな各々(おのおの)が自分の時間に没頭(ぼっとう)していた中に響いた音に、皆が一様に顔をあげた。

 入店したときから店の最奥(さいおく)に置かれているピアノは目に入っていたが、既に音楽を辞めた身である俺がなにかするなんてことはもちろんなく、ただインテリアとしてしか見られなくなってしまった〝死んだピアノ〟なんだなと、少し(むな)しい気持ちになっただけだった。

 けれど、そのピアノは生きていた。たった今、ひとりの奏者によって命が吹き込まれた。死んだように見えていたピアノは、その音色をもって人々の心を震わせている。

 突如(とつじょ)流れてきた音に対して誰ひとりとして不満を示さず、その音楽は全員に受け入れられていた。
 万人(ばんにん)に受け入れられる音楽を奏でられる人というのは、業界にもほとんど存在しないことを、俺は昔から痛いほど知っていた。それが難しいからこそ、奏者はまず譜面(ふめん)通りに弾くことを強制される。

 しかし、この音色はなににも(とら)われることなく、自由な輝きを浮かべていた。俺の耳には、この音色が人々の心に寄り添って『さあ踊ろう』と紳士(しんし)的な手招きをしているようにすら聴こえた。そうして手を引かれた心が音楽と共に踊り出す。まるで、このカフェ一帯が音色の舞踏会(ぶとうかい)にでもなったかのようだ。

「……ああ」

 感嘆(かんたん)の息が漏れる。こんなにも楽しそうで自由な音楽ははじめて聴いた。
 心がうっとりとしてくるのを感じる。もはや読書など放棄してこの音色に耳を傾けていた。

 そうして一曲を弾き終える。すると、どこからともなく拍手が聞こえてきた。その数はひとつ、またひとつと増えていき、小洒落たカフェはその数瞬(すうしゅん)だけ小型のコンサートホールになったと錯覚(さっかく)するくらいだった。

 俺が感嘆の次に抱いた感情は、興味だった。
 どんな人がこの音楽を奏でているのだろう、そういった単純な興味。

 おそらく一曲では終わらないのだろう、奏者からはまだ演奏の緊張は発されている。でもそれは程よくリラックスした緊張だ。だからこそ、この固すぎず抜け過ぎてもいない心地のよい音を響かせられる。

 俺は奏者が二曲目を始める前に席を立った。店を出るのではない、その逆だ。店の奥へと足を進めた。テーブルとテーブルの間を()って、奏者の存在を確認するために衝動(しょうどう)的に進む。

 奏者を視界に収めると同時に、目を見張った。
 演奏していたのは洗練された女性か、熟練の初老かを想像していた俺は、そのどちらでもない制服姿の女の子、という身なりに驚かずにはいられなかった。

 でもそれ以上に。
 その清々しい微笑みを(たた)えた横顔に、どうしようもなく視線が吸い寄せられてしまった。

 グランドピアノの艶やかな黒よりも、規則正しく並ぶ鍵盤(けんばん)の白よりも、目の前の女の子は際立っていた。コンサート用のドレスを着ているわけでもないのに、その奏者としての横顔が胸中(きょうちゅう)を高鳴らせた。

 俺はきっとその瞬間――恋に、落ちてしまったのだろう。

 見つめられる視線に気づいたのか、女の子はこちらに振り向き視線が交錯(こうさく)する。そうすることで、またひとつ心臓が大きく弾んだ気がした。
 女の子は、その瞳に警戒と困惑の色を残しながらも、「……どうでしたか?」と薄く微笑んで()いた。

 彼女の声までもが、先ほどまで奏でられていた音色のようだと感じた。
 どうしようもなく高鳴る胸を抑えて、俺は口を開いた。

「……ひと目惚れ、しました」