1.
首都圏郊外、実ヶ丘市。
駅近くに開かれたアーケード街の仲見世通りは、駅前のデパートや大手スーパーに負けぬよう地域密着型の根強い商売を展開している。
八百屋や青果店、精肉店と言った食料品店から、本屋、文房具屋、電機店、雑貨屋などの日用品店、定食屋や飲み屋などの外食店、小児科、内科、整形外科の開業医まで一通り揃っている。
その一角に築三〇年以上は経つであろう、うらぶれた二階建ての店舗が薬局と駄菓子屋の間に挟まれていた。
『鞣革製靴店』
という看板が掲げられている。
元は電飾で光っていたようだが、今は故障したのか省エネなのか、発光していない。
看板の下には小さな文字で注意書きも認められた。
『靴のオーダーメイド受け付けます。靴の修繕、ヒールの修理も承っております』
その一文に吸い寄せられて、二人の女子高生が店頭を覗いた。
まるで明かりにたかる羽虫のようだ。看板は光っていないのに。
セーラー服である。半袖。夏服だ。
まだ四月の半ばを過ぎた頃だが、昨今は温暖化の影響ですこぶる暑い。衣替えの季節には早いものの、制服に刺繍された『市立実ヶ丘高校』の校則には、自主判断で衣替えして良いと記されているのだろうか。
「こ、ここかな……? ねぇ、鞘香」
二人の片割れが、おっかなびっくり話しかける。
長い髪を襟足で束ねた、メガネ姿の地味で大人しそうな子だ。今も目立たぬよう、鞘香と呼んだ友人の影にこそこそ隠れ、スマホの地図アプリと睨めっこしている。
「そうよ、踏絵」
もう一人はと言うと、頭半分ほど踏絵より背が高い、上半身をぴんと伸ばした元気溌剌な少女だった。
姿勢だけでも対照的だが、髪は短く、風を受けてそよいでいる。肌は両名ともうっすら小麦色だが、鞘香の方がやや濃い。
通学かばん以外に大きな巾着袋を提げている。中に収められたオンボロのランニングシューズを見下ろしてから、決意も新たに顔を上げた。
看板を天高く仰ぐ。アーケードの屋根から射し込む夕陽が眩しい。
「この店が、最後の希望よ。ランシューの修理を受けてくれるかどうかの瀬戸際!」
「ほ、他にも靴屋さんはあったけど、革靴オンリーだったり、予算の兼ね合いで断られたりしちゃったのよね……」もごもごと呟く踏絵。「製造メーカーは納期が長いし……」
鞘香のボロ靴を直してもらうべく、二人は町中の靴屋を訪ねて回った。部活のない日は早めに下校し、ずっと歩き通しだった。
しかし、願いは届かなかった。革靴やピンヒールならいざ知らず、運動靴は直すより買い換えた方が経済的だと諭される始末。製造メーカーにも問い合わせたが、順番待ちでたっぷり一ヶ月はかかると聞いて断念した。
「夏大会の地区予選はゴールデンウィーク明けの土日だから、悠長に一ヶ月も待ってられないのよメーカーめ!」
「し、新品を買い直す方が早いって言われても、そんなお金ないもんね……」
「そうなの! これ大会用に買った限定モデルだから高いし、限定品だから他に売ってないし! あーあ、そこそこの値段で早めに直せる靴屋さんはないかなぁ?」
鞘香はずるずると靴底を引きずって歩く。
制服用の安いローファーを履いているが、これも心なしくたびれている。革の光沢が微塵もない。すり減った靴底は今にも剥がれそうだ。
「私はランシューに思い入れがあるから、これを履いて大会に出たいのよ!」
鞘香は巾着袋を強く抱きしめた。
鞣革製靴店を観察する。戸口はない。シャッターを開放されたフロアは所せましと靴が陳列されている。夏に先駆けてサンダルやミュールが大きく棚を占領し、その奥にビジネスシューズやブーツ、ファミリー向けのスニーカーなどが見て取れた。
個人経営の小さな敷地でありながら、品揃えは豊富だ。極限まで整頓し、計算し尽くされたレイアウトでなければ、このスペースにこれほどの品は並べられまい。
奥の壁には『工房』と記された扉が目に映る。
そこで靴の製造・修理を行なっているのだろうか。
「ごめん下さーい! 何て読むんだっけ、ナ……ナメシガワ製靴店さーん!」
鞘香はソプラノボイスを張り上げた。
店内に反響した声は、虚しく拡散されて消滅した――誰も居ないのか?
「わ、ま、待ってよ鞘香」
踏絵がおっかなびっくり追従する。
店内には客もない。あまり繁盛していないのか。埃一つかぶっていない商品群はいずれも有名メーカーから出たばかりの新商品で、回転率は悪くなさそうだが――?
「いらっしゃい」
工房の扉が押し開かれた。
出て来たのは腹の底に響く重低音の偉丈夫で、煽るように鎌首をもたげている。
男性にしては長めの前髪を、真ん中で分けている。あらわになった双眸は、鷹のように研ぎ澄まされた強面だ。踏絵がヒッと叫んで物陰に隠れた。
鞘香だけは平然と見返し、男性の誰何を考察した。
男性の服装はワイシャツに蝶ネクタイ、スラックスをサスペンダーで吊るしている。そして『鞣革製靴店』のロゴが入ったエプロンを前身にかけていた。
足には工房作業用と思われる厚手のブーツを履いている。足のすねまで覆う黒革が物々しい。歩くたびにごつごつと重たい音を立てた。
「何か入り用かね?」
男性は、ぶっきらぼうに言い放つ。レジカウンターまで進み出ると、そこにあった丸椅子にどっかと腰を下ろした。
無愛想だ。
表情一つ変えない。
店主だとしたら客商売にあるまじき仏頂面ではないか。
「凄い鉄面皮ですね!」
だから鞘香は、つい言ってしまった。
男性はぴくり、とこめかみを疼かせる。
後ろで踏絵が震え上がった。
堂々と店主のしかめっ面に物申す。鞘香はそういう性格なのだ。肝が据わっているというか、屈託がなさ過ぎるというか。
「ねぇ! あなたがここの店主さん? 私たち初めてで勝手が判らないんですけど、そういうときって店員が積極的に接客するべきじゃないですか?」
「……ぴーぴー囀る客人だな」
店主はかったるそうに、椅子に座ったまま頬杖を突いた。
仕草が粗野だ。身なりは整っているのに、どうにもとっつきにくい。
商店街は地元の馴染み客しか来ないから、一見さんには厳しく当たってしまうのだろうか。常連客ならば店主の態度にも慣れているのかも知れないが――。
「見た感じ、三〇歳くらいですか?」構わず迫る鞘香。「黙っていれば渋《しぶ》メンって感じですけど、お客にはもっと愛想良くしてくれたら嬉しいです!」
「二八歳だ。何だね一体。人の店に踏み込んで来たかと思ったら説教かね?」
「えっ二〇代なんですか! 強面だから年輩に見えますね!」
「あ、あのっごめんなさい……!」
踏絵が割り込んだ。
喋り倒す鞘香を押さえ込み、店主から遠ざける。怖がっていたくせに凄い膂力だ。さすが陸上部の同胞、体作りの基礎は出来上がっている。
「わ、悪気はないんですっ。鞘香は人見知りせず、ずかずか寄せて来る図々しさで……」
「えー踏絵、その言い方ひどくない?」
「だから、勘弁して下さいっ……あ、あたしたちずっと靴屋を練り歩いてたせいで、若干ナーバスになっておりまして……!」
「練り歩いた、だと?」
店主が興味を持ったらしく、ぎろりと横目でねめつけた。
踏絵は再び悲鳴を発し、鞘香を盾にして身を隠す。
鞘香は溜息を吐くと、しぶしぶと言った風体で店主に向き直った。
「私のランシューを直したくて、いろんなお店を回ったんですけど、どこも断られちゃって。あ、こっちの子は私の部活仲間です。靴屋巡りにも付き添ってくれる、自慢の親友なんですよ! 引っ込み思案なのが玉に瑕ですけど!」
「誰も聞いちゃいないよ、そんなこと」
店主は面倒臭そうにぼやいた。唐突に自分語りをされても困るのだろう。
鞘香は「そうですか」と軽く流した。何が不興を買っているのか理解できていない。
踏絵が後方から裾を引っ張って「鞘香は|パーソナルスペースが近すぎるよ……誰にでも遠慮なく接しすぎ……!」と注意したが、それの何が悪いのか鞘香には見当が付かない。
「珍しい客人もあったものだ」
店主は重たそうに腰を持ち上げた。
立ち上がった威容が二人を俯瞰する。細身なのでそれほど脅威ではないが、やぶにらみの三白眼と、への字に結ばれた口許は女子高生を圧倒した。
「工房で靴の修復作業をしていたら、店頭の防犯カメラに人影が映った。こりゃ来客だと思ってレジに出てみれば、小娘に接客態度が悪いと叱られる始末……ははっ、傑作だなこれは。かんらかんら、かんらからからよ」
「か、かんら……?」
現代人には耳慣れない笑い方に、鞘香は目を丸くした。
風変わりな店主の一挙手一投足に、鞘香の双眸は釘付けだ。持ち前の積極性が、彼女を退かせない。
「それより今、靴の修復作業って言いましたよね!」
「ああ。この店は我輩一人でやりくりしているから、客の居ない時間は靴工房にこもっている。来客があれば防犯カメラとセンサーが教えてくれるのでな――」
「さっきも言った通り、私のランシューを直して欲しいんですけど!」
鞘香は一も二もなく巾着袋を押し付けた。
ぼろぼろのランニングシューズが袋から垣間見える。いきなりガラクタを渡された店主は何事かと眉をひそめたが、すぐに気を取り直して巾着袋を握りしめた。
その際、鞘香とわずかに指が触れた。店主より日に焼けた、健康的な肌の色だ。
「ランシューを直すつもりかね?」訝しむ店主。「革靴ならいざ知らず、運動靴なんて今どき使い捨てだろう。新商品が続々と各メーカーから発売されているのに――」
「駄目なんです!!」
鞘香は遮った。
店主と同じ台詞を何遍も聞かされた。耳にたこが出来そうだ。だから否定せずに居られなかった。半ば声を裏返らせながら。
「私は、そのランシューじゃなきゃ駄目なんです!」
「ほう。どういうことだ?」
「練習用の安いトレシューなら持ってますけど、本番はこのランシューで走るって決めてるんです! 結構高い限定モデルで、なけなしのお金を払った記念品なんです!」
「記念品?」
店主は眉につばを付け、巾着袋を目線の高さまで掲げ持った。
ランニングシューズを引きずり出し、じろじろと見つめる。
靴底が剥がれ、足先や踵の外皮は破れ、紐がちぎれかけた廃品同然のボロ靴。
かなり使い込まれている。普通、ここまで履きこなす者は居ない。単に物持ちが良いだけではなく、ただならぬ思い入れがある証左だ。
執着。愛着。そして拘泥。
鞘香という女子高生は、一足のランニングシューズに何らかの誓いを立てている。
「本番以外にも、フォームの最終調整とかで練習中に履くこともあります。そうなるともう、使うのが限界で! 私の愛用のランシューを修理して下さい!」
鞘香は店主にしがみ付いた。足を引きずって、すがるように這い寄る。他に頼れる者が居ないのだ。
「靴の修理を請け負う店って、近年どんどん減ってますよね? そりゃそうですよね、古いものを直すより新品を買った方が市場は回りますし、店も楽に儲かりますから! でも私は、この靴じゃないと本番を走れない理由があるんです!」
「もういい、判った判った」
「え! それじゃあ――」
「とりあえず我輩から手をどけろ」
店主は鞘香を振りほどいた。同時に巾着袋を押し返す。まるで突き返されたように感じられて、鞘香はがっくりとうなだれた。
「やっぱり駄目、ですか?」
「先に事情を聞かせて欲しい。まずはお嬢さんの名前から教えてくれないか?」
「私は跡部鞘香! 市立実ヶ丘高校の三年生です! こっちは親友の鞆原踏絵!」
「あ、ど、どうも……」物陰から会釈する踏絵。「鞘香の付き添いで来ました……」
「私たちは次の夏大会が最後なんです! 絶対に勝ちたいんです! だから靴を――」
「誰も断るとは言っていない」
一心不乱に訴える鞘香の頭が、ぽんと店主の手で撫でられた。
大きな手だ。硬くてごわごわしている。これが靴工房で働く男のてのひらか。
「我輩は靴を直すのが仕事だ。専門学校でシューズフィッターや製靴技能試験などの民間資格に合格したあと、海外で何年か修行を積んで来た。おかげでしばらく日本語を忘れてしまったほどだ」
「へえ! じゃあさっきの『かんらかんら』とか、一人称の『我輩』とか古風な話し方をしてたのって――」
「日本語を思い出すために文豪の近代文学を読み漁ったら、当時の言葉遣いに影響を受けてしまったようだ」
しれっと答弁する店主の仏頂面が、それはそれで趣深い。
偏屈な怪人物としか思えない第一印象も、こうして咀嚼してみると個性的で面白く感じられる。鞘香のパーソナルスペースが近いおかげで、どんな相手でも特徴を真っ先に掴めるのは便利だった。
「あははっ、面白い個性ですね! 他のお客さんにも私と同じことを聞かれませんか?」
鞘香はますますのめり込む。
実際、武骨な偉丈夫が堅苦しい言葉を発するなんて、一度見たら忘れられないインパクトだ。他の客は疑問に思わないのだろうか。
「今日び、こんな小さい店には馴染みの客しか来ないのでな」閑古鳥な店内を一望する店主。「駅前のデパートに客を取られ、ご覧の通り靴職人なんか儲からないのが実状だ。修理の依頼も年々減っており、我輩の人となりを聞かれることも少ない。だからまぁ、お嬢さんのような新規客は大歓迎だ」
「大歓迎? ――てことは!」
「うむ。ランニングシューズの修理は可能だ。ネットで検索すれば、運動靴の樹脂縫合や靴底の貼り換えなど、山ほど出て来る。ただコストに見合わないだけでな」
コスト――そう。高価な革靴ならいざ知らず、消耗品である運動靴をわざわざ直す利点は少ない。だからこそ、店主の一声は鞘香にとって救世主のごとき福音に聞こえた。
「申し遅れたな、我輩の名は鞣革靼造。靴にまつわる客人の悩みを紐解きながら生計を立てる、一介の靴職人だ」
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