4.



 恋する乙女は最強だ。

 鞘香は最初から全速力(フルスロットル)だった。

 短距離走百メートルのトラックである。ついにこのときがやって来た。何も遠慮することはない。思い切り実力を発揮して、最後まで悔いの残らない走りをする――それこそが店主や実兄に(むく)いる唯一の手段であり、悲願なのだから。

 まずは一次予選、百メートルの直線トラックを八人ずつ走り、流れ作業的にタイムが記録されては消える。

 何しろ一次は参加者数が最も多く、次々とふるいにかけなければ消化しきれない。

 グラウンドに男子と女子用の二つのトラックが設けられ、走り終えた選手からどんどん更衣室へ引っ込んで行く。

 二次、三次、そして決勝へと勝ち上がるには、突破すべき最低限の目安となるタイムが定められているのはもちろんのこと、上位に食い込まなければ予選突破の芽は出ない。

 ――そんな中、鞘香は獅子奮迅の大驀進(だいばくしん)をまざまざと披露した。

「女子のスコアボード見ろよ! 十二秒切ってる子が居るぞ!」

「何っ、十一秒九八!?」

 アリーナ席に居た各校の選手だけでなく、スタンド席の一般客からも、電光掲示板の表示にどよめきの声が湧いた。

 高校生女子の百メートル走において、十三秒台なら凡俗、十二秒台前半なら全国出場は間違いなしと言われている。

 十二秒を切れれば間違いなくトップレベルだ。ちなみに女子インターハイの日本最高記録は『十一秒六三』(二〇〇六年夏大会)である。

 十一秒台は高みに辿り着いた俊足スプリンダーにのみ与えられる栄誉だ。地区予選でほいほい観測されるような数字ではない。それをしょっぱなから叩き出した鞘香は、間違いなく絶好調のコンディションだった。

「やるからには気を抜けないもんね!」スコアボードを眺望する鞘香。「こんな所でもたついてたら、お兄ちゃんや店主さんに合わせる顔がないわ! 飛ばしてくわよ!」

 足取りは軽い。

 したたる汗を拭いつつ、トラックを出て更衣室に戻った。

 ロッカーの前で座り込むと、出来るだけ回復に努める。スポーツドリンクで水分を補給しながら、伸ばした褐色の健脚をマッサージした。

 好成績の要因は無論、ランニングシューズである。多少ボロが残ってはいるものの、まるで吸い付くようにジャストフィットしたこの靴は、店主の手で生まれ変わった逸品だ。

 鞘香専用にカスタマイズされた足型と靴底(ソール)は、一歩一歩がまるで飛び跳ねるようなストライドを実現した。歩幅が広ければ、その分だけ速く遠く前進できる。少ない歩数で距離を稼ぎ出す、理想的なフォームが完成したのだ。

 無論、それだけではない。鞘香自身が日頃から積み重ねた鍛錬あっての成果だ。特筆すべきは、さまざまな事件(トラブル)を乗り越えて養われた精神(メンタル)だろう。非凡な経験を得た彼女だからこそ、ランニングシューズによって爆発的に潜在能力を開花させた――。



「かんらかんら、かんらからからよ。女子高生の最速記録・十一秒六三に迫れる才能が、こんな身近に埋もれていたとはな」



 スタンド席に腰かけた店主は、したり顔で呟いた。珍しく相好を崩している。

 一次予選から好タイムを飛ばした鞘香の姿に、疲れた様子は見られなかった。いきなり力を使い果たして二次予選で失速するという心配はなさそうだ。

「実ヶ丘高校の跡部鞘香をチェックしろ!」

 客席のあちこちから声が上がる。雑誌記者やカメラマンなど、各メディア取材班に激震が走っているのを見て取れる。

「二次、三次予選でも似たようなタイムが出たら本物だぞ!」

「この地区じゃ、これに匹敵する女子選手なんて居ないんじゃないか?」

「春大会では、足高っていう子が最速だったよな。今回はどうだ?」

「今回の足高は十二秒〇六。充分に速いが、跡部ほどじゃない」

「まだ一次だから足を温存してるんだろ。いきなり飛ばし過ぎても足が持たない」

 随所で噂されている。

 ライバル選手がどうのと言われているが、もはや鞘香の敵ではない。それに陸上は自分との闘いだ。他人の記録など知ったことではない。

 さまざまな下馬評をものともせず、続く二次予選でも鞘香は快進撃を続けるのだった。

「――二次予選でも十二秒を切ったぞ!」

「十一秒九一……さらにタイムを縮めて来やがった!」

 会場を歓声が支配した。

 最初だけのマグレではないことを、鞘香自身が実証したのだ。バテて記録を落とすどころか、逆にペースを上げた。とんでもないバイタリティである。独擅場(どくせんじょう)と言って良い。

「全く、末恐ろしい選手が誕生したものだ」

 店主も思わず快哉を上げる。

 それは同時に、彼の佇むスタンド席の外れまで、声を聞き付けた『宿敵』に歩み寄られる呼び水にもなってしまったが。

「黙れよ鞣革、跡部鞘香を育てたのは俺だ」

「――八兵、か」

「あの女へ最初に目を付けたのも、この俺だ! 断じてお前の手柄なんかじゃない!」

 忍び寄った人影は、店主の視界ぎりぎりに映った所で立ち止まった。

 堂々と立ちはだかるのではなく、飽くまでも自然な観客を装っている。ここで喧嘩を始めたら人目に付くから、徒跣なりに自粛しているのだろう。実に小賢しい。

「何の用かね、八兵」

「ちょっと(つら)を貸せよ。予選決勝まで時間がある。それまで男どうし、積もる話をしようじゃないか。なぁ?」

「……良かろう。我輩も貴様とは白黒はっきり付けるべきだと考えていた所だ」

 店主は武骨な面相に影を落とし、徒跣のあとを追従した。

 客席から会場内通路へ移動し、人の居ない最奥の曲がり角で停止する。

 陽光の届かない、蛍光灯がまばらに照らす冷たい空間だ。初夏の密閉空間であるにも関わらず、とても涼しい。話し声が壁に反響しそうだが、相手が動こうとしないので、店主はやむを得ず切り出した。

「八兵の用件から先に聞こうではないか」

「俺はな、お前が目障りなんだよ」

「目障り、とは?」

俺の跡部(・・・・)にこれ以上近付くなということだ! うろちょろするな! 嗅ぎ回るな!」

 単刀直入に突き付けられた。

 徒跣は恐れているのだ。手塩にかけて育てた教え子が他者に取られてしまうのを。

 かつて三角関係で愛しの女性を勝ち取った彼だが、今は何もかも失ってしまった。これ以上取りこぼしたくないという危機感が、脅迫まがいの喧嘩腰となって顕現したのだ。

「何が『俺の跡部』だ、思い上がりも甚だしい」

 店主はあいにく、従う気など微塵もない。

 あまつさえ鞘香を所有物のように扱う徒跣に、言いようのない虫唾が走った。

 慢心、傲慢、うぬぼれ、虚勢が透けて見える。聞いていて気持ちの良い言葉ではない。

「我輩は貴様の過ちを止めに来た。八兵よ、もう醜い工作はやめたまえ。そんなことをしても、あの女性は生き返らない」

「! おいおい鞣革……お前ごときが俺の嫁を語るなよ!」

 挑発には挑発が一番効く。

 徒跣が簡単に逆上したのを見て、徐々に店主は語気を強めた。

「あの女性の面影を鞘香さんに見出すのは勝手だが、鞘香さんは決して誰かの代替品ではない。鞘香さんを鞘香さんとして接さずに、何が教師だ」

「知った風な口を利くなよ敗北者!」壁を殴る徒跣。「お前は負け犬だろうが! かつて俺に負け、三角関係に負け、陸上部も追放されたみじめなゴミだ! なのに今さら俺の前へのこのこ再登場しやがって、うざいんだよ! 目障りなんだよ!」

「我輩は負けてなど居ない。貴様の汚い小細工に屈しはしたが、当時の公式記録では一度も負けたことがなかった。貴様はそんな我輩を(ねた)み、(そね)み、卑怯な手練手管で妨害しただけだ。そんなものが勝利と言えるのか?」

「負けは負けだろうが! お前は俺に敗れ、海外へ出奔《しゅっぽん》した! 靴職人だっけか? しこしこ靴を修復して糊口(ここう)(しの)いでりゃ良いものを、なぜ跡部に加担する? 俺への意趣返しかよ? ああ?」

「貴様のやり方が間違っているからだ」

 店主は一歩、押し迫った。

 長身を駆使して睥睨(へいげい)すると、さしもの徒跣も気圧(けお)されたのか、勢いを削がれた様子で腰を引かせた。

「うっ……な、何だと鞣革。俺のどこが間違っているって言うんだ?」

「勝つために自己鍛錬するのではなく、他人を陥れて足を引っ張る気様は、ただの卑劣漢でしかない。自分の欲望のために他者を傷付ける悪行(あくぎょう)は、貴様をとことん堕落させた」

「何だと――」

「その結果が、現在の貴様だ。貴様は陸上選手としても大成せず、大手メーカーの契約も取り消され、結婚した令嬢とも死別した。何一つ手に入れていない。負け犬は貴様だ!」

「う、うるさい!」

「かろうじて取得した教員免許で高校教師になってからも、鞘香さんを振り向かせること叶わず、彼女に近付く異性へ姑息なイタズラを繰り返すのが関の山――醜い。実に醜い」

「うるさいって言っているだろ! こうするしかなかったんだ! 俺は生まれてこの方、これしか手段を知らなかったんだよ!」

 徒跣は店主の胸倉を掴んだ。

 店主より背が低いため、見上げる格好になったが、さすがに体育会系なだけあって腕力は強い。首を絞められた店主は息苦しさを覚えたが、一向に振りほどけず難儀した。

 せいぜい相手の手首を握って、これ以上締め付けられないよう牽制するだけだ。

「八兵よ、大会中に暴力沙汰を起こせば大問題になるぞ? 暴行の現行犯だ」

「けっ。お前が今のことをチクれるか? 俺が失脚したら陸上部も巻き添えを食うぞ?」

「…………」

「俺と足高が共謀したシューレースの罠も、お前が推理して直したんだろう? その努力も無駄になっちまうぜ? 実ヶ丘高校は顧問の不祥事で失格、ってな! いいのか?」

下衆(げす)め」

「何とでも言えよ。俺は自分の欲望を満たすために生きる! 他人なんぞ知ったことか。俺はいつだって愛に飢えていた。愛が欲しかった。そのために何だってして来た! 自分の努力だけじゃ足りない、他人を蹴落とせばさらに盤石だと学んだのさ!」

「貴様は……一体どんな環境で生まれ育ったのだ?」

 まっとうな正攻法を知らず、歪んだ人生を歩んだ徒跣に違和感を覚えた。

「俺ん家は貧乏でさぁ。しかも親は離婚してすぐ蒸発しちまうし、底辺の家庭だったぜ。親戚のつてを頼って学校だけは行かせてもらえたが、どこへ預けられても邪魔者扱いで、生活水準はひどいもんだった。衣服は常に誰かのお下がり、ノートを買う金すらない」

「だから人から奪うことを覚えた、と? 他人を蹴落とし、自分が成り上がることこそ処世術だと思い込んだのか?」

「飯すら満足にもらえなかったから、しょっちゅう陰で盗み、奪っていた。欲しいものは殴ってでも手に入れる。人のものをもぎ取ってこそ満たされる! これが俺の哲学だ!」

「同情はするが、だからと言って被害を受けた方はたまったものではないぞ」

「知るか! 負ける奴が弱いだけだろ? やがて、高校で金持ちのお嬢様と出会ったときは小踊りしたね。逆玉の輿(こし)を狙えば貧乏生活とオサラバできるってな!」

「浅ましいな。我輩は永遠に貴様を容認できない。断固として抗議する。抵抗する。反抗する。反逆する。反論し続ける!」

 店主はついに徒跣の手を振りほどいた。

 徒跣が自分語りに没頭して力がゆるんだ瞬間を見逃さない。その返す手で店主は懐中に忍ばせていた自身のスマートホンを取り出した。先刻、靴跡の写真を保存したスマホだ。

 ――録音機能がオンになっている。

「今の会話は全て、ここに記録させてもらったぞ。貴様が今までやらかした非道と本音を自白した、確たる証拠となったな」

「! 鞣革、(はか)ったな!」

「これにより、現行犯でなくとも我輩はいつでも貴様の不祥事を公開できる。鞘香さんに影響のない時期を見計らって暴露し、貴様を学校に居られなくすることも可能だ」

「くそが!」

「さぁ、どうするね? 大人しく鞘香さんから手を引けば良し。さもなくば貴様の本音を暴露し、公共の場で『紐解く(・・・)』ことになるが?」

 紐解く。

 店主はあえて、その言葉を選んだ。

 これが彼の信念であり、矜持であり、象徴的な(うた)い文句でもあるからだ。

「なぜだ、鞣革!」再び掴みかかるも(はじ)かれる徒跣。「なぜそこまで、跡部に肩入れするんだよ! お前と跡部はまだ会って間もないくせに。俺の嫁に似ているからか?」

「彼女は、我輩の腕を見込んでくれたのだ」

「――あぁ?」

「靴職人として、頼れる男として、我輩を必要としてくれたのだ。需要があれば提供するのが商売ではないかね?」

「何だそりゃ。要はお前も俺の嫁に未練タラタラで、その面影を跡部に見出したんじゃないのか? もっともらしいお題目を立てて、跡部への下心を隠したつもりかよ!」

「ふん。馬鹿なことを」

「ランシューの修理で知り合った若い女に、これ幸いと(つば)を付けたんだろ? 跡部もお前への恩情を恋愛と勘違いしている。その気持ちを利用して手なずけたんだろうが!」

「それは違う。確かに彼女は我輩へ好意を向けているが、我輩はまだ応じないつもりだ」

 先ほどのキスを思い出すが、あれは鞘香から一方的にもらったものだ。

 完全な不意打ちであり、店主は年の差と立場の違いを充分にわきまえている。

「しこうして、ほのかな恋心が彼女を奮起させているのもまた事実だ。これから夏大会に向けて、彼女の士気を下げたくない。ゆえに今は黙認している……それが我輩の、靴職人としての距離感だ。パーソナルスペースなのだ!」

 パーソナルスペース。

 鞘香が留意していた人間関係の距離感を、店主も気にかけていた。

 あえてその語句を口に出すことで、彼女を一番に思いやっていることを明言したのだ。自分のことしか頭にない徒跣とは正反対の気遣いであり、格の違いを提示した案配だ。

「き……詭弁だ! そんなもの……本当は俺だって……くっ!」

 徒跣は圧倒され、どうにか抗弁しようとするが、言葉が続かない。

 店主は徒跣の敗北を確信すると、踵を返した。去り行く背中で、最後通牒を言い残す。

「こじれた紐をほどけば履き心地が良くなるように、こじれた距離感も、事件も、我輩の手で紐解く(・・・)のが靴職人としての責務だ――判ったら消えろ。我輩の前から、永劫にな」



   *



 地区予選はつつがなく終了した。

 女子百メートル予選決勝は鞘香が一位で通過し、晴れて関東大会の切符を手に入れた。

 関東大会は六月に開かれる。そして念願の全国大会は八月だ。

 約束のランニングシューズで勝利した鞘香は、翌朝まで歓喜の涙を流し続けたという。

「決勝のタイムは十一秒八七。自己新記録も更新です!」

 商店街に、快活な鞘香の声が響き渡る。

 夕暮れ時の鞣革製靴店は早くも客足が減り、閉店時間まで暇そうだった。

 鞘香はセーラー服の上にエプロンをかけている。店のロゴが刺繍されたエプロンは、彼女が放課後にアルバイトとして働いている証だった。

 靴の修理代金として、彼女がここに勤めるという契約がいよいよ執行されたのだ。部活のない日に、生活費を稼ぐコンビニバイトとはまた別の仕事として。

「掛け持ちで出場した二百メートル走も決勝まで残れました! とはいえこっちは決勝で負けちゃったんですけど、全力を出せたんで悔いはないです!」

「今さら言われずとも知っている」

 矢継ぎ早に話しかけられた店主は、鬱陶しそうに鞘香を手で追い払った。

 レジスターの残金を確かめたあと、通り一遍の使い方を鞘香に教えてから、さっさと工房へ引きこもろうとする有様だ。

「では君に店番を任せる。もちろん来客の際には我輩も顔を出すようにはするが、修理の依頼でない場合は君が最後まで接客したまえよ」

「承知しました、店主さん!」

 なぜか敬礼で応じた鞘香は、店主と同じ空間に居られることが嬉しそうだった。

 このアルバイトを契約したのが四月半ば頃だ。あれから一ヶ月が経ち、鞘香の目標は予定通りに進行している。正当な努力さえすれば、夢は叶うのだ。徒跣と違って――。

「それでですね、店主さん! 顧問の徒跣先生なんですけど!」

「何だね?」

 徒跣の名を出したので、店主は工房のドアを閉める手が止まった。

 わずかな隙間から強面を突き出し、ぎろりと鞘香を睨む。他の人が見たら鬼の生首が浮かんでいるとしか思えない構図だが、鞘香はうっとりと店主に見とれている。

「先生は地区予選が終わった途端、別の教師に顧問の座をゆずって、高校を辞めちゃったんです! すでに別の高校へ転任先も目星を付けたらしくて、引っ越すとか何とか――」

「本当かね、それは?」

「店主さんに嘘なんかつきませんよ! これってどういう風の吹き回しでしょうか? 私に脈がないと知って、あっさり身を引いたんですかね?」

「そうだな――それが徒跣なりのケジメの付け方か」

 店主はまぶたを閉じて、思いを馳せた。

 奴は店主に敗れ、二度と鞘香に近付かないと約束した。だから転任するのだろう。部活にも支障がないよう、関東大会の前に退任したのも賢明である。

 悪は潰え、平和が戻った。

 奴が転任先でまた何か企てるかも知れないが、それはもう店主には関係がない。

 さぞかし鞘香の足取りは軽かろう。靴の履き心地も最高のはずだ。

「よし、話は済んだな。では我輩は改めて工房へ入る――」

「あっ、まだ行かないで下さいよぅ!」

 店主が工房へ引っ込む寸前、鞘香はドアの間に足を差し込んで、閉じるのを阻止した。

 言うまでもなく足が思いきりドアに挟まれて、貴重な健脚を痛めないか心配される。

「足を挟むな。アスリートが足を大事にしなくてどうする?」

「だって、離れたくないんですもん」甘えたそうに顔を寄せる鞘香。「初バイトの景気付けに、もう一回キスしてもいいですか?」

「なっ……」強面が歪む店主。「何を馬鹿な! 大人をからかうものではないぞ!」

「うふふっ、店主さん照れてますね! 鬼のような形相が真っ赤ですよ、赤鬼ですか?」

「あのなぁ――――……むぐっ!?」

 反論しようと店主が顔を寄せた瞬間、鞘香は狙い撃つように背伸びと共にキスをした。

 甘いリップクリームの味がする。

 ほんの数瞬ではあるが、確かに両者の息吹と唾液を味わった。

「も、もう我輩は知らんぞ!」

「えー? 何がですか?」

 鞘香がニヤニヤすると、店主は言い返せずドアを閉めてしまった。中から慌ただしい物音がどたばたと聞こえる。かなり動揺しているようだ。大人の距離感とは難しい。

「よう、鞘香」

「あっお兄ちゃん!」

 店頭から声が聞こえた。

 鞘香のアルバイト姿を一目見ようと、兄の赳士(たけし)が冷やかしに来たのだ。それだけではない、婚約者の歩美(あゆみ)や、親友の踏絵、男子のエースである起田少年も続々と来店した。

「さ、鞘香……今日から靴屋でバイトなのよね……頑張ってね、いろんな意味で」

「ありがとう踏絵! ん? 頑張るってどういう意味で?」

「もちろんそれは、恋も仕事も(・・・・・)……ってことよ」

 鞘香に恋心を自覚させた親友は、察しが良い。

 にわかに活気を帯びた鞣革製靴店は、笑いの絶えることがなかった。

 悩みを紐解けば、そこには笑顔が生じる。どんなに履きづらい靴だって、ぴったり嵌まれば幸せになる。靴は人生のメタファーなのだ。靴のほころびは人生の痛み。修復することで、未来へ前進できるようになる。

 紐解き靴屋の履き心地はいかがだろうか――今日も無愛想な靴職人が、客人の悩みを修理し続けている。