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「――それは【百々目鬼】だね」

 電車に乗っている帰宅途中の最中、作間くん宛に本谷さんから「寂しくて死んじゃうから久野ちゃんと一緒に書店に顔を出してえええ」と、なんともふざけたメールが入った。
 いつものように商店街を通って山田書店に立ち寄ると、先日入った部屋ではなく別の書庫に案内された。
 沢山の古本に囲まれた中、山積みにされた本から唐突に「おかえり、助けて!」と言いながら本谷さんが這うように出てきたときは、夜中にも関わらずご近所迷惑極まりないほどの大声で叫んでしまった。

 なんとか作間くんと二人がかりで引きずり出し、座る場所を確保すると、今日のことを話した。
 話し終えるまで黙って聞いていた本谷さんは、丸眼鏡のフレームを直しながら言った。

「確か、名簿にも名前があったけど……おそらく別のところからやってきたんだろうね。百々目鬼は元々は盗みを働く人間を、物の霊が呪いをかけて身体を蝕ませ、化け物に変えてしまった妖怪さ。身体のいろんなところに無数の目が現れていただろう? 恐らくその店長さんは、立場欲しさに嘘をつき続けたんだろうね」

 はい、説明書。と言ってこれまた名簿と同じくらいボロボロの和装本を投げ渡される。慎重にページを捲って百々目鬼の項目を見つけると、人の体に無数の目が入った絵が全面に描かれていた。
 同時にリュックに入っていた名簿も取り出してちゃぶ台の上に置くが、相変わらずページは煤で汚れて読めるものではない。

「心の隙を狙われたんだろう。妖怪は人間の暗い部分から擬人化したって話もある。……ああ、すべてがすべてってわけじゃないよ? 守り神様の正体が実は妖怪でしたーなんてことは、普通にあるからさ」
「身体を蝕んで妖怪にする……その後はどうなるんですか?」
「どうって言われても、妖怪は普通の人に見えないから、日常生活は問題なく過ごせるんじゃない? どこまで取り込まれるかはわからないけど」
「本谷さん、さっき物の霊の呪いって言ってたじゃないですか。今のまま放置しておいて、百々目鬼は店長から離れていくことは……」
「ないね。無理」

 あっけらかんと本谷さんは答えた。

「昔の泥棒はね、金銭や骨董を盗むことによって欲求を満たしていた。百々目鬼は盗まれた金銭、骨董の祟りから生み出された妖怪。――モノは違うけど、店長さんも一緒。自分の確実な立場と顔欲しさ故に嘘をついて役職持ちにゴマを擦り、頭の中で作った小話を周りに聞かせて支持を得ることで欲求を満たす。百々目鬼が現れたのは、それに耐え切れなかった人間の醜い部分だね」
「……じゃあ、店長に百々目鬼が住み着いているのは……」
「うん。半分は君のせい」

 本谷さんは躊躇うことなくはっきりと答える。「確証はないけどね」と付け加えても、真顔で話す彼に、私は目線を落とした。
 店長が会社からの重圧を受けながら仕事をしているのはわかっていたのに、私は追い打ちをかける形で怒鳴った。それが今までの引き金になっていたとしたら……こんなことにはならなかったのだろうか。
 すると本谷さんは私の後ろに座っていた作間くんに問う。

「作間くん、キミは目の前で百々目鬼を見たんだろう? どうだった?」
「……あまり良い印象はありません。百々目鬼に取り憑かれたからこそ、本性を露わしたようにも見えました」
「ふーむ……これは店長の根本的な問題である気がしてきたよ。店長自身が気付いて戻る努力をしないと悪化する一方だろう。話を聞く限り、今の彼の状態は百々目鬼にとって最高の寝床らしいし、離れるとすれば飽きたとか、見損なった時ぐらいじゃないかな」

 これは時間がかかるぞー、と本谷さんは笑う。
 なんで楽しそうでいられるの? 人の命がかかっているかもしれないのに。

「何か、何か方法はないんですか? 店長は社会人として最低ですけど、一応人間です!」
「そんなこと言われてもねぇ……ってか、お嬢さんにとっては好都合じゃないか。少しくらい痛い目に遭わせてあげなよ」
「でも!」

「五月蠅いなぁ。――他人を化け物にして、死んで逃げようとしたのはお嬢さんだろう?」

 本谷さんにそう言われてハッと息を呑む。
 丸眼鏡の奥にうっすらと開いた目は、珍しい紫色をしていた。まるで考えていることを全て見透かしているようで、思わず顔を引きつらせるとごめんごめん、と笑って続けた。

「怖がらせるつもりはないよ。でもね、キミが飛び込むことを選んだとしても、同じ結果にだっただろう。人は気付かないうちにすぐ変わってしまう、自分を守るのが下手な生き物だからね。考え過ぎると【良くないもの】が寄ってくるよ」

 本谷さんの口から、何度も聞いた言葉が零れる。初めて会った時も、襲われた時にも言っていたその言葉が、今はどこか重く聞こえた。

「考える間は誰にしも僅かな隙間ができる。彼らはそういうところに取り込んでいくのさ。――正直な話をすると、妖怪の大半が人間に取り憑くことを躊躇わないんだよ。その人間の考え方がどんなに正義感で溢れて輝かしいものでも、どれだけ悪巧みをして自己中心的なものでも、妖怪には関係ない」
「……どうして、ですか?」

 聞きたいような、聞きたくないような。
 恐る恐る問うと、本谷さんは待ってましたと言わんばかりに両手を広げ、嬉しそうに笑った。

「簡単な話さ! 妖怪は人間の何十年、何百年以上も前からずっと生きて間近で見守り、人間によって生み出された存在だ。乗っ取られるのも、人間の自業自得にしかすぎない。多くの妖怪が人間を見れば、口をそろえて答えるだろう。『可哀想にしか思えない!』とね。どうだい、滑稽だろう?」

 高々と嘲笑う本谷さんに、私はその場で呆然と見つめていた。
 本谷さんの話はとても残酷だが、どこか納得している自分がいる。
 妖怪にとって、人間の人生は一瞬にしか見えないらしい。彼らの一日が長く感じる中、人間は働いているだけですぐ終わってしまう。「働きすぎ」と言われる国ではあるものの、精神的には忙しいことに変わりはない。
 襖の近くで胡坐をかいて聞いていた作間くんは、まるで耳を塞ぐように目を閉じていた。
 満足したのか、存分に笑い終えた本谷さんは近くにあった和装本を優しく撫でた。

「……だから【しぐれさま】は、人間と生活するように言ったんだよ。醜い争いを続ける妖怪達が、人間の脆さに気付くように」
「え……?」

 先程とは打って変わって、優しい声色で言う本谷さん。心なしか微笑んでいるようにも見えた。