文学部の西棟は新しい建物だ。東棟は逆に、木造の床が抜け落ちそうなほどに古く、地下には何が潜んでいるやら皆目見当も付かない。
わたしは古い東棟のほうが好きだ。西棟は何だか息苦しい。
学園祭期間中はすべて休講になるから、西棟の入口も休祝日と同じように施錠されていた。センサーに学生証を触れさせて待つと、カチッと音がして扉のロックが解除される。
その途端、学生証を持つ手にピリッと痛みが走った。
「いつッ……!」
取り落とした学生証を、ひょいとかがんだ沖田が空中でつかまえた。
「こんな鍵があるんだな。人工エレキとやらを使った仕掛けかい?」
「そうだよ。わたし、この扉、苦手なんだ。いつもバチッてなる」
沖田から学生証を受け取って、扉を押す。
しんとした館内に入る。扉は背後で閉じた後、ジーッと音を立ててロックされた。
沖田は、機能性一点張りのホールを見渡した。
「これはまた殺風景だね」
「現代の建物には、こういうのも多いよ」
「ふぅん。それで、あんたが所属しなけりゃいけない場所っていうのはどこ?」
「上の階だよ」
階段はホールにも増して、つるりと白くて殺風景だ。へえ、と漏らした沖田の声が反響した。沖田はわたしに目配せをして、案内を促す。
学子堂ではゆっくり過ごしてきた。コーヒーをおかわりして、庭にも少し出て。とはいえ、まだ学園祭は始まらない。
どうやって時間をつぶそうかと思っていたら、沖田が「大学という場所を見てみたい」と言った。わたしが籍を置く文学部を。
わたしは唇を噛み締め、階段に一歩、踏み出した。
心臓がざわざわと鳴っている。肩で息をする。首筋の毛が逆立つように感じる。
立ち止まるな。
一段、また一段。大丈夫。上っていける。
足音もなく、沖田が付いてくる。
体が重い。でも、ちゃんと動く。頭は痛くならない。
恐怖感とも嫌悪感ともつかないものが喉を絞め上げる。呼吸が乱れる。胃の中で鈍痛がうごめく。吐きそうになる。
一段、また一段。上る。上る。上る。
踊り場で、わたしはビクリと固まった。
廊下を歩く複数人の足音と、にぎやかに交わされる会話。研究室のある階だ。会話に、知った名前が登場した。日本中世史の教授の名前。
隠れたい、と思った。
間に合わなかった。
国史研究室の先輩たちが廊下から現れた。しゃべりながら階段を下りてくる。彼らと、踊り場で固まったわたしと、視線が合った。
呼吸ができない。
彼らはスッと目をそらした。わたしを避けた、というわけではなさそうだった。
おそらく彼らは、わたしが国史研究室の院生だと気付いていない。覚えていないのだ。わたしを批判したことはおろか、わたしが自分たちの後輩であることすら。
赤の他人と行き違うかのような、温度のない無視だった。先輩たちはしゃべりながら階段を下りていく。
わたしは固まったままだった。いや、がちがちにこわばっていたわけではない。震えていた。
足音と声が遠ざかっていく。何をしゃべっているのか、言葉が聞き分けられない。殺風景な階段に、わんわんと尾を引く反響。
はあ、と沖田が息をついた。
「あんたはわかりやすいね」
肩に温かい手が置かれた。その途端、金縛りが解けたかのように、わたしは呼吸ができるようになった。
「……わかりやすい?」
「今の人たち、倶利伽羅峠の戦いがどうのこうのって言ってた。いくら学のないおれでも、源平合戦くらいはちょっと知ってるよ。あの人たちが国史研究室とやらの?」
「先輩だよ。わたしの顔も覚えてなかったみたいだけど……国史研究室は学生の人数も多いし、仕方ないかな」
「一人だけ気付いたみたいだったよ。立ち止まってこっちを見て、何か言おうとしてた」
わたしは、ひゅっと息を呑んだ。
沖田は眉尻を下げて笑った。
「そういう顔しそうだなって思ったからさ、とっさに相手のこと、にらんじまった。そしたら、慌てて頭を下げて行っちゃったよ」
「……誰だったんだろう?」
「心当たり、ないの?」
わたしは唇を噛んだ。頭に靄《もや》がかかっているみたいだ。
先輩たちの名前が思い出せない。一年前まで、できるだけ毎日、先輩たちと顔を合わせようと努力していたのに。本人たちが去ってしまうと、顔も声も、もうおぼろげだ。
同じじゃないか。
わたしのことをろくに覚えていない先輩たちと、わたしは同じだ。大事な後輩だと思ってもらえないのは、わたしが彼らを大事だと思っていないから。
「全部、自分に返ってくるんだよね。よくないおこないや、正しくないおこない。うわべだけの親切とか、おためごかしとか、その場をやり過ごすための嘘とか」
「間違ったことしたって思ってる? それとも、悪いことした、なのかな」
「どっちも」
「でも、あんたはまじめにやってたんだろう?」
「空回りしてたみたい。誰のためにも、何のためにもなってなかった」
沖田は、すねたように眉根を寄せた。
「全部返ってくるなんて嘘だ。あんたがまじめにやってたぶんを、誰もあんたに返してくれやしなかったんだよ。ちゃんとやってたんなら、どうしてあんただけ、しけた顔をしているんだ?」
わたしは古い東棟のほうが好きだ。西棟は何だか息苦しい。
学園祭期間中はすべて休講になるから、西棟の入口も休祝日と同じように施錠されていた。センサーに学生証を触れさせて待つと、カチッと音がして扉のロックが解除される。
その途端、学生証を持つ手にピリッと痛みが走った。
「いつッ……!」
取り落とした学生証を、ひょいとかがんだ沖田が空中でつかまえた。
「こんな鍵があるんだな。人工エレキとやらを使った仕掛けかい?」
「そうだよ。わたし、この扉、苦手なんだ。いつもバチッてなる」
沖田から学生証を受け取って、扉を押す。
しんとした館内に入る。扉は背後で閉じた後、ジーッと音を立ててロックされた。
沖田は、機能性一点張りのホールを見渡した。
「これはまた殺風景だね」
「現代の建物には、こういうのも多いよ」
「ふぅん。それで、あんたが所属しなけりゃいけない場所っていうのはどこ?」
「上の階だよ」
階段はホールにも増して、つるりと白くて殺風景だ。へえ、と漏らした沖田の声が反響した。沖田はわたしに目配せをして、案内を促す。
学子堂ではゆっくり過ごしてきた。コーヒーをおかわりして、庭にも少し出て。とはいえ、まだ学園祭は始まらない。
どうやって時間をつぶそうかと思っていたら、沖田が「大学という場所を見てみたい」と言った。わたしが籍を置く文学部を。
わたしは唇を噛み締め、階段に一歩、踏み出した。
心臓がざわざわと鳴っている。肩で息をする。首筋の毛が逆立つように感じる。
立ち止まるな。
一段、また一段。大丈夫。上っていける。
足音もなく、沖田が付いてくる。
体が重い。でも、ちゃんと動く。頭は痛くならない。
恐怖感とも嫌悪感ともつかないものが喉を絞め上げる。呼吸が乱れる。胃の中で鈍痛がうごめく。吐きそうになる。
一段、また一段。上る。上る。上る。
踊り場で、わたしはビクリと固まった。
廊下を歩く複数人の足音と、にぎやかに交わされる会話。研究室のある階だ。会話に、知った名前が登場した。日本中世史の教授の名前。
隠れたい、と思った。
間に合わなかった。
国史研究室の先輩たちが廊下から現れた。しゃべりながら階段を下りてくる。彼らと、踊り場で固まったわたしと、視線が合った。
呼吸ができない。
彼らはスッと目をそらした。わたしを避けた、というわけではなさそうだった。
おそらく彼らは、わたしが国史研究室の院生だと気付いていない。覚えていないのだ。わたしを批判したことはおろか、わたしが自分たちの後輩であることすら。
赤の他人と行き違うかのような、温度のない無視だった。先輩たちはしゃべりながら階段を下りていく。
わたしは固まったままだった。いや、がちがちにこわばっていたわけではない。震えていた。
足音と声が遠ざかっていく。何をしゃべっているのか、言葉が聞き分けられない。殺風景な階段に、わんわんと尾を引く反響。
はあ、と沖田が息をついた。
「あんたはわかりやすいね」
肩に温かい手が置かれた。その途端、金縛りが解けたかのように、わたしは呼吸ができるようになった。
「……わかりやすい?」
「今の人たち、倶利伽羅峠の戦いがどうのこうのって言ってた。いくら学のないおれでも、源平合戦くらいはちょっと知ってるよ。あの人たちが国史研究室とやらの?」
「先輩だよ。わたしの顔も覚えてなかったみたいだけど……国史研究室は学生の人数も多いし、仕方ないかな」
「一人だけ気付いたみたいだったよ。立ち止まってこっちを見て、何か言おうとしてた」
わたしは、ひゅっと息を呑んだ。
沖田は眉尻を下げて笑った。
「そういう顔しそうだなって思ったからさ、とっさに相手のこと、にらんじまった。そしたら、慌てて頭を下げて行っちゃったよ」
「……誰だったんだろう?」
「心当たり、ないの?」
わたしは唇を噛んだ。頭に靄《もや》がかかっているみたいだ。
先輩たちの名前が思い出せない。一年前まで、できるだけ毎日、先輩たちと顔を合わせようと努力していたのに。本人たちが去ってしまうと、顔も声も、もうおぼろげだ。
同じじゃないか。
わたしのことをろくに覚えていない先輩たちと、わたしは同じだ。大事な後輩だと思ってもらえないのは、わたしが彼らを大事だと思っていないから。
「全部、自分に返ってくるんだよね。よくないおこないや、正しくないおこない。うわべだけの親切とか、おためごかしとか、その場をやり過ごすための嘘とか」
「間違ったことしたって思ってる? それとも、悪いことした、なのかな」
「どっちも」
「でも、あんたはまじめにやってたんだろう?」
「空回りしてたみたい。誰のためにも、何のためにもなってなかった」
沖田は、すねたように眉根を寄せた。
「全部返ってくるなんて嘘だ。あんたがまじめにやってたぶんを、誰もあんたに返してくれやしなかったんだよ。ちゃんとやってたんなら、どうしてあんただけ、しけた顔をしているんだ?」