「わたしは行くって言ってない!」
つい叫んでしまったとき、巡野が廊下の向こうからやって来た。
「にぎやかすぎますよ。さなの声は案外よく通るんですから」
わたしはむっとして、声の調子を低くした。
「ちょうどよかった。巡野、明日こそ文芸サークル行ってきて。ついでに沖田の面倒も見て」
巡野はさらさらの髪を払った。
「残念ながら、明日は集賢閣にお呼ばれです。ぼくが在学中に書いたレポートを、弦岡先生が書庫から発見してくださったのですよ。いつ来てもいいとおっしゃったので、では明日にと約束してきました」
「弦岡先生と約束って、今度の金曜でもいいでしょ?」
「すでに約束してきたのです。今さらこちらの都合で勝手にひっくり返すなんて、できませんよ。そうそう、実は、ある人からのプレゼントを預かってきているのでした」
巡野はスタンドカラーシャツの胸ポケットから、小さな紙片を二枚、取り出した。含みのある笑みを浮かべて、わたしではなく沖田に、紙片を渡す。
沖田は目をしばたたいた。
「今度は何の札?」
「学子堂《がくしどう》のコーヒーチケットです。学子堂というのは、この近所にある西洋式の茶店ですが、そこへこの札を持っていくと、無料でコーヒーが飲めるのです」
「これ、おれが受け取るの?」
「お願いします。さなを引っ張っていってくださいよ。学子堂の店長が、もうずいぶん姿を見ないと心配していました。近いうちに本人を連れていきますよという話になりまして」
「その茶店のものだったら、おれも飲み食いできるんだね?」
「大丈夫ですよね、さな? 学子堂のものでエレルギーを起こしたことはないのでしょう?」
わたしは奥歯を噛み締めた。ぎりぎりと嫌な音がする。去年、欠けてとがっていたところは、いつの間にか、すり減って平たくなっている。
巡野は肩をすくめると、わたしではなく沖田に向かって繰り返した。
「頼まれてくださいね、沖田さん」
「まあ、わかった。おれも寮に閉じこもってばっかりじゃあ退屈だし」
わたしは声を荒げた。
「勝手に決めないでよ! 何なの? わたしはそういうふうに他人の指図を受けるのは本当に嫌で、だいたい、そろいもそろって、急にどうして……!」
感情が急速に膨れ上がる。言葉が追い付かない。息が切れる。心臓がざわついていて苦しい。寒いようで熱い。体が震える。
何だ? どうしてだ?
この大きな感情は、一体、何だ?
切石は長身をかがめて、わたしと目の高さを合わせた。深いグレーの瞳が、わたしの心までも見透かそうとするかのように、のぞき込んでくる。
「恐ろしいか?」
ただ一言で、両目がぶわりと熱くなった。視線をそらす暇すらない。涙が呆気なく落ちる。
そのとおりだ。
わたしは恐れている。
当たり前にキャンパスに通うことも、学生が憩う喫茶店に入ることも、うまくできなくなった。何でもないはずの大学生活を送れない。そんな弱い自分に向き合うことが怖い。
「行きたくない……」
つぶやいた声は、信じられないほど、か細く揺れた。
切石は静かに問うた。
「ほんまか?」
わたしは目を閉じた。また涙があふれた。
違う。
行きたくないわけじゃない。戻れるものなら戻りたい。でも、怖い。怖いと感じてしまうことが情けない。
切石の大きな手がわたしの頭の上に載せられた。もとは冷たい石のくせに、切石の手は、どうしてこんなに温かいんだろう。
「なあ、大将。下手な芝居で焚き付けようとしたんは、わしが悪かった。謝るわ。すまん。わしが思うとるんはな、大将に楽しんでほしいだけや。人間の命は短いさかい、苦しい時間を長う過ごしてほしゅうない」
「……わたしは……」
「立ち止まるんがええんやったら、立ち止まっとき。無理に歩き続ける必要はあらへん。せやけどな、わしの目には、大将が歩きたがっとるようにしか見えへんのや。わしは、大将の背中を押してやりたい。そう思うのは、あかんか?」
余計なお世話だ、と突き放したかった。
声が出なかった。涙が邪魔で、袖《そで》で顔を拭きながら、わたしの頭をぽんぽんと撫でる切石の手を払いのけることすらできない。
巡野の声が、思いがけず近くから聞こえた。
「初めて見ましたね、こんなあなたは。肉体的な苦痛で流す涙なら見たことがありますが」
袖をつかまれた。ごわごわした綿の着物の代わりに、柔らかい布が頬に触れた。巡野のハンカチだ。
わたしは唇を噛んで、されるがままになっている。嗚咽《おえつ》が止まらない。
今までだって、泣かないわけじゃなかった。一人で泣いていただけだ。涙が止まらないときには、一日じゅうだって部屋に閉じこもっていた。
そんなときは切石も巡野もわたしに近寄らなかった。わたしが彼らにとって契約の主だからだ。命じたわけではなくとも、わたしは無意識のうちに結界のようなものを作って彼らを遠ざけた。彼らは従うしかなかった。
でも、沖田は違う。わたしと沖田は、互いに主だ。対等な形で、契約の糸が絡み合っている。
だから、これは沖田のせいだ。切石と巡野は、沖田のせいで絡んだ糸を頼りにして、主としてではないわたしを手繰り寄せたのだ。
最悪だ。従者である切石と巡野の前で、こんな情けない姿をさらすことになるなんて。
ため息をつくのが聞こえた。沖田は、ため息の割にはひょうひょうとしたいつもの様子で言った。
「じゃあ、明日は出掛けるってことでいいのかな。朝から迎えに行くよ。一応、部屋の戸口から呼ぶけど、返事がなかったら押し込むからね」
つい叫んでしまったとき、巡野が廊下の向こうからやって来た。
「にぎやかすぎますよ。さなの声は案外よく通るんですから」
わたしはむっとして、声の調子を低くした。
「ちょうどよかった。巡野、明日こそ文芸サークル行ってきて。ついでに沖田の面倒も見て」
巡野はさらさらの髪を払った。
「残念ながら、明日は集賢閣にお呼ばれです。ぼくが在学中に書いたレポートを、弦岡先生が書庫から発見してくださったのですよ。いつ来てもいいとおっしゃったので、では明日にと約束してきました」
「弦岡先生と約束って、今度の金曜でもいいでしょ?」
「すでに約束してきたのです。今さらこちらの都合で勝手にひっくり返すなんて、できませんよ。そうそう、実は、ある人からのプレゼントを預かってきているのでした」
巡野はスタンドカラーシャツの胸ポケットから、小さな紙片を二枚、取り出した。含みのある笑みを浮かべて、わたしではなく沖田に、紙片を渡す。
沖田は目をしばたたいた。
「今度は何の札?」
「学子堂《がくしどう》のコーヒーチケットです。学子堂というのは、この近所にある西洋式の茶店ですが、そこへこの札を持っていくと、無料でコーヒーが飲めるのです」
「これ、おれが受け取るの?」
「お願いします。さなを引っ張っていってくださいよ。学子堂の店長が、もうずいぶん姿を見ないと心配していました。近いうちに本人を連れていきますよという話になりまして」
「その茶店のものだったら、おれも飲み食いできるんだね?」
「大丈夫ですよね、さな? 学子堂のものでエレルギーを起こしたことはないのでしょう?」
わたしは奥歯を噛み締めた。ぎりぎりと嫌な音がする。去年、欠けてとがっていたところは、いつの間にか、すり減って平たくなっている。
巡野は肩をすくめると、わたしではなく沖田に向かって繰り返した。
「頼まれてくださいね、沖田さん」
「まあ、わかった。おれも寮に閉じこもってばっかりじゃあ退屈だし」
わたしは声を荒げた。
「勝手に決めないでよ! 何なの? わたしはそういうふうに他人の指図を受けるのは本当に嫌で、だいたい、そろいもそろって、急にどうして……!」
感情が急速に膨れ上がる。言葉が追い付かない。息が切れる。心臓がざわついていて苦しい。寒いようで熱い。体が震える。
何だ? どうしてだ?
この大きな感情は、一体、何だ?
切石は長身をかがめて、わたしと目の高さを合わせた。深いグレーの瞳が、わたしの心までも見透かそうとするかのように、のぞき込んでくる。
「恐ろしいか?」
ただ一言で、両目がぶわりと熱くなった。視線をそらす暇すらない。涙が呆気なく落ちる。
そのとおりだ。
わたしは恐れている。
当たり前にキャンパスに通うことも、学生が憩う喫茶店に入ることも、うまくできなくなった。何でもないはずの大学生活を送れない。そんな弱い自分に向き合うことが怖い。
「行きたくない……」
つぶやいた声は、信じられないほど、か細く揺れた。
切石は静かに問うた。
「ほんまか?」
わたしは目を閉じた。また涙があふれた。
違う。
行きたくないわけじゃない。戻れるものなら戻りたい。でも、怖い。怖いと感じてしまうことが情けない。
切石の大きな手がわたしの頭の上に載せられた。もとは冷たい石のくせに、切石の手は、どうしてこんなに温かいんだろう。
「なあ、大将。下手な芝居で焚き付けようとしたんは、わしが悪かった。謝るわ。すまん。わしが思うとるんはな、大将に楽しんでほしいだけや。人間の命は短いさかい、苦しい時間を長う過ごしてほしゅうない」
「……わたしは……」
「立ち止まるんがええんやったら、立ち止まっとき。無理に歩き続ける必要はあらへん。せやけどな、わしの目には、大将が歩きたがっとるようにしか見えへんのや。わしは、大将の背中を押してやりたい。そう思うのは、あかんか?」
余計なお世話だ、と突き放したかった。
声が出なかった。涙が邪魔で、袖《そで》で顔を拭きながら、わたしの頭をぽんぽんと撫でる切石の手を払いのけることすらできない。
巡野の声が、思いがけず近くから聞こえた。
「初めて見ましたね、こんなあなたは。肉体的な苦痛で流す涙なら見たことがありますが」
袖をつかまれた。ごわごわした綿の着物の代わりに、柔らかい布が頬に触れた。巡野のハンカチだ。
わたしは唇を噛んで、されるがままになっている。嗚咽《おえつ》が止まらない。
今までだって、泣かないわけじゃなかった。一人で泣いていただけだ。涙が止まらないときには、一日じゅうだって部屋に閉じこもっていた。
そんなときは切石も巡野もわたしに近寄らなかった。わたしが彼らにとって契約の主だからだ。命じたわけではなくとも、わたしは無意識のうちに結界のようなものを作って彼らを遠ざけた。彼らは従うしかなかった。
でも、沖田は違う。わたしと沖田は、互いに主だ。対等な形で、契約の糸が絡み合っている。
だから、これは沖田のせいだ。切石と巡野は、沖田のせいで絡んだ糸を頼りにして、主としてではないわたしを手繰り寄せたのだ。
最悪だ。従者である切石と巡野の前で、こんな情けない姿をさらすことになるなんて。
ため息をつくのが聞こえた。沖田は、ため息の割にはひょうひょうとしたいつもの様子で言った。
「じゃあ、明日は出掛けるってことでいいのかな。朝から迎えに行くよ。一応、部屋の戸口から呼ぶけど、返事がなかったら押し込むからね」