御蔭通に出たところで、目の前を薄緑色のバスが走っていった。でかいな、と沖田がつぶやいた。
 寮の正門は、もうすぐそこに見えている。

「ねえ、そろそろ下ろして。自分で歩くよ」
「嫌だよ。切石さんに針千本飲まされちまう。あんたを部屋まで送り届ける約束になっているんだ」

 切石に言い付けられたから。そうでなかったら、沖田はわたしの言い分を聞いてくれたのだろうか。
 気まぐれなようで、頑固だ。いい加減なようで、律儀だ。

 御蔭寮の結界の中に入ると、呼吸がぐんと楽になった。更紗さんが玄関に待ち構えていた。
「浜北さん! 何てことなの。ずっとそうやってケガレを預かっていたのね? 無茶はしないでと言ったはずよ。あなたは拾得に特化しているぶん、解放が苦手なの。そのケガレを永久的に取り込んでしまったらどうするつもり?」

 農学部の生命科学系で研究者志望の更紗さんは、本当なら平日午後のこんな時間に寮に戻ることなんてあり得ない。柴蔵の件を気にして、研究室を抜けてきたのだろう。

 柳眉を逆立てる更紗さんに、わたしは一言だけ謝った。
「心配をかけてごめんなさい」
 以後気を付けます、とは言えない。きっとそれは嘘になってしまうから。

 ひとしきり叱られてから玄関ホールを抜けた。沖田は階段を上がりながら、ほっと息をついた。
「さっきの更紗さん、土方さんそっくりだった」
「新撰組副長の土方歳三《ひじかた・としぞう》?」

「そう。おれが屯所を抜け出して近所の子どもらと遊んでから帰ると、ああやって玄関で待ち構えていて叱るんだ。色男を台無しにして、鬼みたいな顔してさ」
「抜け出すほうが悪い」

「仕事ばっかりしていられるもんか。土方さん以外は、みんなそれぞれ、上手に息抜きをしてたよ」
「息抜きか。山南さんも、きみと一緒に子どもたちと遊んだんでしょう?」

 沖田は、乾いた声でささやいた。
「昔話みたいだ。山南さんが死んで、もう一年半だよ」

 反射的に計算した。
 山南敬助が切腹したのは一八六五年の春だ。それから一年半後なら、沖田は一八六六年の秋から二十一世紀へやって来たことになる。

 屯所はもう壬生にはない。西本願寺に移っている。御陵衛士はまだ分離していない。かろうじて新撰組は形を保っている。徳川幕府が大政奉還をおこなうまで、あと一年。

 一連の知識が頭の中を駆け巡った。わたしは、沖田のやせた背中にしがみついたまま、黙っていた。

 わたしの部屋の前で、沖田はようやくわたしを床に下ろした。沖田はわたしの顔をのぞき込んだ。
「さあ、送り届けたよ。おれの病を返して」
 わたしはかぶりを振った。
「今すぐは無理」

「どういうこと?」
「寝てるうちに戻るよ」
「何で? おれの体から病を受け取るときは、こう、おれの胸に手を当てて、剥がして取っていっただろう?」

「預かることはできるの。返し方がよくわかんない。でも、一晩眠って翌朝になったら、持ち主のもとに戻るはず。今まではそうだった」
「戻らなかったら?」
「そのときは……まあ、そのときだけど。でも、仮にそうなったら、きみはもとの時代に帰れなくなると思う。わたしがきみの肉体の一部を食べてしまうようなものだから」

 沖田はしばらく絶句していた。口を開きかけたり、髪をくしゃくしゃ掻いたり、刀の下緒に手を触れたりして、言葉を探しているようだった。
 わたしは待った。壁に背中を預けて、浅い息を繰り返しながら。
 沖田はそっぽを向いてつぶやいた。

「あんたは、おれがどんな死に方をするか、知っているんだろう? それがおれにとっていい死に方かどうか、答えを持っているんだ。そうなんだろう?」

 知らないわけがない。
 沖田総司は肺結核によって死ぬ。

 一八六六年の秋から沖田が来たとするならば、病死するのは二年後の夏。大政奉還に端を発する戦争が日本中を蹂躙するが、病の進んだ沖田はもう戦場に立つことなく、病床でひとり死んでいく。

 それが沖田にとってのいい死に方だとは、わたしには思えない。
 いや、いい死に方って、そもそも何だ?

 黙ってしまったわたしの前で、沖田は顔を上げた。微笑んでいる。確か同い年くらいのはずだ。でも、えくぼのできる笑顔はいくぶん幼く見える。
 沖田は言った。

「今日はありがとう。思い切り体を動かせて、気持ちよかった。嬉しかったよ。こんなことができる日がもう一度来るって、信じちゃいなかったからさ」
「うん……」

 わたしの肩をぽんと叩くと、沖田はわたしに背を向けた。
「じゃあ、早く寝なよ」

 沖田の後ろ姿が行ってしまう。月代《さかやき》を剃らず、ざっくりとまとめただけの髷《まげ》。案外広い肩、細い腰、二本の刀。
 自由自在に飛び回っていた。あれが本来の沖田総司だったんだ。
 わたしは唇を噛んだ。袂《たもと》に触れると、沖田に預かった巾着袋が、かさりと、かすかな音を立てた。