決して大きいわけではない神社の本殿。本殿の前に着いた時、財布の中から小銭を取り出し、それをそっと賽銭箱に入れ、目の前に垂れ下がる鈴の紐を揺らした。
 ——カランカラン。と低めの鈴の音が鳴り響き、僕は姿勢を正し、二度お辞儀をする。顔を上げたその後に、パンパン——と二拍し、目を閉じた。

 僕は変わった性格をしている。と、別れた彼女は言っていた。こうして目を閉じて神社にいざご挨拶をすると、普通ならばお願い事や自分の目標、祈願などを言うのではないだろうか。だけど僕は昔からここに立ち、目を閉じるとなぜか何を話そうって考え込んでしまう。

 それならばここに立つ前に考えればいいのではないか、と考えるのだけれど、それはいつもここに立ってから気づいてしまうため、全くもって学ばないのだ。
 なぜなのかは分からない。が、いつもこうして僕は何をお願いするわけでもなく、時に無心に手を合わせ、時に今日の夜ご飯のことを考え、時にどれくらいこうして目を閉じていようかと考えたりしてしまう。
 母さんは言った。ご挨拶に伺うのだから、自分の名前を名乗り、ただこんにちはの挨拶を述べればいいのだと。

 けれどそれはなんだかしっくりこない。こんにちは、と挨拶をするのはいいとして、なぜ名前を名乗る? 神様がそんなことを聞きたいのか? いや、僕はそうは思わない。むしろたくさんいる参拝者の中、名前を名乗られたところで、忙しい神様には知ったこっちゃない情報でしかないのではないかと常々思っているのだ。

 お願い事をするのも、あまり好きではない。どうしても自分ではどうしようもない事ならばするかもしれない。元より神頼みとはそう言うものだと思うからだ。
 だが自分の努力なしに、神頼みとはどう考えても都合の良い話ではないだろうか。賽銭の金額を上げてみるか? いやいや、それはもっとがめつい話で、全然神聖さを感じない。むしろ神様がお金を使えるのか? 使えるわけもないだろう。ならば神職者の懐を温める結果となるだけだ。

 神職者は神に仕えているのだし、もちろん神社の修繕費なども必要だろう。僕がお金を入れる事でそこに役立つ。回り回って神様に奉仕することにもなるのかもしれないが、それでもなんだかしっくりこないのだ。
 ならばお願い事をせず、ここで表明すれば良い。と母さんが言ったこともあったっけ。でもそれならわざわざ神社に来てまで言う必要はないと僕は思う。
 わざわざ神様のお宅にお邪魔し、どこの馬の骨かも分からない輩が突然自分の為すべきこと、成し遂げたいことの決意表明をしてみろ。僕なら不快でしかないと思う。
 だから僕は結局のところ無心で——。

「お前、かなりめんどくさい奴だな」

 その声に僕は思わず目を開けた。