次の日、私は普通に学校に行った。お父さんとお母さんは休んでもいいと言っていたけれど、吐いた原因は体調不良じゃないし、休んだ分のノートの問題だってある。

 いくら土砂降りの雨が降って、朝一番の授業が音楽で、合唱コンクールの練習があっても行かなきゃいけない。いつまたいじめが起きるのかも分からないし、今のうちに出席日数を稼いでおく必要がある。

 私は折り畳み傘を閉じながら、下駄箱で靴を履き替えた。

 夏休み前、傘が無くなってから折りたたみ傘に頼るようになった。家を出る前から雨が降っていてもだ。

 あれから雨の日、傘の泥棒が多発していると聞いて安堵したけれど、でも泥棒はいるわけで、そういった意味でも安心だ。

 あらかじめ持ってきたタオルで水気をふき取り、傘をビニール袋にしまっていると、寺田の笑い声が階段のほうから聞こえてきた。どうやら階段近くの自販機で飲み物を買っているらしい。寺田の声の合間に、清水照道の声も聞こえる。

 教室に行くのは、奴らが行った後にしよう。

 奴らが去っていくのを待ち、声がしなくなったところで階段の様子を伺うと寺田も清水照道の姿も見えなかった。安心して、けれど念のため顔をあげ上を見ると、上では手すりのほうで、ピースがぐにゃぐにゃ動いていた。

 続けるように「寺田階段上りながら飲めない系の人なん?」と清水照道の声がして、慌てて階段を上ろうとする足を止める。

 頭上のピースは、やがてこちらに手の平を向け、左右に揺れた後ひっこんだ。

 間違いない。あの狐は、清水照道が作ったものだ。

 一度上るか躊躇って、上る階段を変えようと踵を返す。体育館沿いの、さっきとは別の階段に移動し上る。階段には生徒は少なく、部活のジャージに身を包んだ生徒か教材を持った先生しか降りてこない。

 一家心中。

 お父さんは、あれ以降特に清水照道について聞いてこなかった。夕飯を食べてお風呂に入って、お風呂から出た私に体調は大丈夫か聞いてそれっきり。

 お母さんには清水照道が助けてくれたこと、そして三浜木宋太が接触してきたことだけを話していて、清水照道の家族や、呟いた言葉に関連するようなことは何一つ触れていなかった。

 昨日の晩、何となく清水照道について考えて、何で私がこんなにも奴の家族について考えなければいけないのだと馬鹿らしくなり、やめた。

 お父さんに聞くことも考えたけれど、お父さんの呟いたあの単語は、やっぱり気軽に聞けるものじゃなくて聞けない。

 なんだか、頭の中がもやもやと、そしてぐるぐるしてきた。ため息を吐いた私はポケットからスマホを取り出し、奴の名前とその単語を打ち込む。

 昨日は、何となく出来なかった。でも気のせいかもしれない。そんな恐ろしい目にあった奴が、階段で狐なんか作ったりしないだろう。

 階段の端に寄り、スマホの検索結果が表示されるのを待つ。通信制限にひっかからないように初めから速度を遅くしているのと、学校の電波が悪いのもあって画面はくるくる回る待機を知らせるアイコンが表示された。しばらく待っていると、ぱっとニュース検索のヒット画面が立ち並ぶ。

 その結果を見て、愕然とした。

 そこには、確かに奴が墓参りをしていたとき彫られていた文字と一致する名字と、照道という文字が並んでいる。

 一番最初に出たサイトをクリックすると、そこにはこの高校近くの、いや、前にあいつに連れられた公園の近くの団地で、夫婦が自殺で亡くなった記事が出てきた。若い夫婦が借金を繰り返し、貧しさを苦に、自殺をして、当時中学生だった息子で、十四歳の、照道という少年が、警察に連絡して発見されたと書かれている。

 団地の、ベランダの写真ものっている。確かにあいつがいい場所だと言っていた公園から見えた、団地だ。

 すっと体の奥が冷えるような、頭が冴えていくような感覚がする。あいつは、一体どういう気持ちで、私をあの場所に連れて行ったんだ。

 あいつは、何を考えているんだ。全く分からなくて、ただ食い入るように画面を見つめる。すると肩を叩かれ、はっとして振り返った。

「……え」

 そこにいたのは、千田莉子だ。バレー部のユニフォームを来て、いつものへらへら笑いは消えたように、じっと何かを悔しがるようにこちらを睨んでいる。その様子に狼狽えると、千田莉子は何かを呪うように呟いた。

「ちゃんと歌いなよ」

「……え」

「声、小さいから。もっと大きな声で歌いなよ。ただでさえ何にもしないんだから」

 畳みかけられる言葉に、反応ができない。

 なんでこいつはこんなに合唱にこだわっているんだ。というか、歌はそこまでつっかえないから声を出してはいる。いやな気持ちや恐怖より、疑問や清水照道に関する衝撃のほうが強くて戸惑っていると、千田莉子は「樋口さんがいじられてればいいじゃん」と憎々しいように私を見た。

 意味が分からない。けれどその私の表情が気に入らなかったのか「もういい」と言って去っていった。

 ……何なんだ。あいつは。

 樋口さんがいじられてればいいじゃんって、何だ。どういう意味だ一体。

 前までは、多分怖くて足が震えていただろうけど、今は清水照道に関する記憶が頭の中を巡って上手く考えられない。

 混乱しながら、私は教室へと向かっていった。




 教室に入ると、相変わらず河野由夏、寺田、清水照道がその取り巻きたちとともに会話をしていた。

 清水照道は、相変わらずだ。何も変わっていない。流行りの曲か何かを流しながらわいわい盛り上がっていて、朝から見ているだけで疲れる。

 標的にならないよう自分の席に座ると、寺田が「あ、そういえばさあ」と手を叩いた。

「昨日照道突然消えたけどどこ行ってたんだよ? 下駄箱で忘れもんしたって言って、俺らしばらく待ってたんだぞ、なぁ河野」

「そうだよー、その後も駅前にいるって送ったのに返ってこないし!」

「わりー、その後マジで腹筋われるレベルで腹やってさ、その後はバイト先の店長にぼこぼこにされてた」

 清水照道は「へへ」と笑いながら大嘘を吐き続ける。けれど河野由夏も寺田も疑うことなく、さらにはその嘘を笑い同調するようにして信じている。本当に、自然に嘘を吐いている。「いや夏休みん時に寝坊したんだけどすげえそれ掘り返してきてさあ」と奴は話を始めて、自分のペースに持って行った。

 夏休み前、清水照道は、河野由夏や寺田に取り入ったように思えた。でも今では、清水照道がクラスの中心にいて、寺田や河野由夏が引き寄せられているように思う。その様子を見ている分には、本当にただの明るくて、人を取り入るのがうまい人間だ。でも、その笑顔を見ていると、やけにニュースサイトに並べられた文字列がちらつく。

 あいつは今、どういう気持ちで笑っているんだろう。

 奴の様子を見ていると、ふいに「おっはよー」と千田莉子が空元気を出すように輪の中心へと入っていった。すると河野由夏は「声でかっ」と顔をしかめる。なんだかその様子に、夏休み前とは少し違うような、なんとなく見ているのがつらくなるような気持ちになった。河野由夏は「っていうか森っぽい匂いがする、何?」と千田莉子を見る。

「ああ、実はさぁ由夏しいが臭いってめっちゃ言ってくるから、スプレー変えたんだよね」

「そんなこと言ったっけ? 忘れちゃった。なんかさぁ、森……? ナスリコ来た瞬間森っぽい匂いしたから。え、何? って思って、ナスリコかぁ」

 河野由夏は千田莉子が取り出したスプレーを興味なさげに見る。そして「あ、やっぱりグリーンって書いてんね」と、放るように千田莉子にスプレーを返した。

「あ、ちょっと由夏しい放らないでよ、危ないって」

「ごめーん」

 河野由夏は千田莉子に興味をなくし、「で、なんだっけ」と清水照道や寺田、ほかの取り巻きたちに振り替えった。千田莉子は焦ったように外れた輪から入り直す。

 もしかして、千田莉子の言っていた「樋口さんがいじられてればいいじゃん」は、自分じゃなくて私がいじられていろと、そういうことなのかもしれない。

 私は何となく、胸騒ぎを覚えながら机に伏し、ホームルームが始まるのを待っていた。



 軽快なピアノの曲が流れ、それに合わせて声を出す。

一時間目は音楽の授業だ。ぷつぷつ穴が開いているように見える音楽室の茶色い壁に囲まれ、ピアノの横に合唱コンクールの順番で並び、先生と、そして音楽家の肖像画がかけられている壁を前にして歌を歌う。

 隣は千田莉子で、もう一方の隣は河野由夏。でも何か私に注目が向くたびに清水照道は私の隣がいいと、いっそ私をテノールに入れられないかと騒いで、河野由夏が笑い場が収まるというのが繰り返され今日もしてから歌の練習が始まった。

 歌の練習に入る前の時間は嫌いだけど、歌の練習中はそこまで苦痛じゃない。歌っている最中だけは左右の河野由夏と千田莉子がしゃべりださないし、千田莉子に声が小さいと絡まれない。そのことに安堵しながら歌を歌っていると、一回目の練習が終わった。音楽の先生が拍手をして、一つ一つパートごとに感想を出す。ぼんやりとその様子を眺めていると、また千田莉子が私の頭上で河野由夏とこそこそ会話を始めた。

「何かさ、声小さくない?」

「そう? 別に普通だったじゃん?」

 河野由夏がなんでもないように返事をする。実際私は、そこまで小さくないし、ましてや口パクでもないし、しかも河野由夏は肩がぎりぎり触れそうなくらい隣にいるのだ。聞こえないわけがない。でも千田莉子はまるで私にもっと声を出させたいようにして、執拗に食い下がる。

「私全然聞こえないんだけど」

「耳悪いんじゃない?」

 しつこいと、暗に匂わせるように河野由夏がため息を吐いたて、何かを思い出すように話を続ける。

「なに、樋口さんにそんな突っかかりたいわけ? もしかして照道のこと好きだから?」

 馬鹿にした、声。完全に千田莉子を格下に見ていないと出ない声色だった。千田莉子は焦ったのか俯いている私でも分かるくらいに首を横に振る。

「そんなわけないよ。由夏しいに協力するって言ったじゃん!」

「は?」

「そこ、私語は謹んで!」

 千田莉子の言葉に、河野由夏は明確に眉をつり上げた。先生が注意をする。二人が頭を下げると先生は総評を始めた。長い総評が終わり、またピアノの伴奏が始まり、歌を歌う。

 何となく、先ほど感じていた胸騒ぎが大きくなるような、そんな感覚がする。

 嫌な感じを覚えながら歌を終えると、席に着くよう先生が指示をした。いつも私の前を遮るか、後ろを遮るように河野由夏と千田莉子は会話をする。

 今日はどっちに行く気だと伺うと、河野由夏は千田莉子と会話をすることなく自分の席に戻っていく。千田莉子は、呆然とするようにしながら自分の席に戻る。私は、やけに広くなった自分の席までの道のりを、まるで足場が分からないような、違和感を覚えながら歩いて行った。