教室が見えるにつれ、どんどん心が重くなる。けれど戻る以外の選択肢はないから、渋々教室へと戻っていく。
出来ることならどこかへ走って逃げてしまいたい。
でも逃げるにしても教室には鞄があるし、今逃げてしまったら『清水照道の言葉によって逃げた奴』として私は見られるだろう。この先清水照道の言葉で誰かに何か言われる可能性が今はなくても、逃げたことで追々言われるかもしれない。
クソ。本当にクソだ。
あいつの軽はずみな一言のせいで、穏便に何事もなく過ごそうとしていた高校生活が脅かされようとしている。
憤りを堪えながら、誰とも目を合わせないように教室へ入り、自分の席へと真っすぐに向かっていく。
清水照道らはここ最近の面白い動画配信者について話をしているらしく、私が教室に戻ってきたことに気付いた気配がない。安心しながら席に座り、鞄から本を取り出し目を落とす。
これは、自衛だ。ぼっちだと思われないように、あくまで本が好きだと思われるように振る舞う。
付け入る隙を与えたら最後嫌な目に遭うし、こうしていればどんなに親切、善良だと思われる人間も話かけてはこない。話かけられても話せないし、馬鹿にされたり真似されるだけだ。
でも、ずっと本を読み続けているせいで家の本は全て読み終わり、もう今読んでいる文庫本も何週目か分からない。
本屋を回ったりするのは嫌いじゃないし、買いたい本もあるけど、近くの書店は全てポイントカードの制度を導入し、やたらと加入を勧めてくるようになった。首を横に振り続けていると、返事をするのも嫌かと睨まれて、それ以降行けてない。校外校内関係なく図書室で借りることは話さなきゃいけないことが多くて行きたくないし、宅配はお母さんやお父さんに頼めるけど、したくない。
出来ないということを改めて知らしめてしまうようで、頼めない。
だから、昔は好きだった読書も今はあまり好きじゃない。
もう次の展開も、台詞も、大体予想できてしまう小説に目を通していると、しばらくしてから安堂先生が焦った様子で教室へと入ってきた。黒板の上、教室を二等分するような位置に置かれた時計を見て、「ああ、もう休みはなしね」と呟く。
時間は確かにいつも朝のホームルームを開始する時間よりも十分ほど遅い。一時間目は安堂先生の担当する現代文だし、きっと朝のホームルームから、そのまま一時間目に移行するのだろう。
安堂先生の号令によって立ち上がり、黙って頭だけ下げて、また着席をする。
高校に入って、日直はあるけど、仕事は雑用を請け負ったり、日誌を書いたり、黒板を消すだけだ。号令をかけることはない。
小学校中学校と号令をさせられ、「何事にもチャレンジは大事だよ」と酷い目に遭わされたけど、そんな悪しき習慣からは解放された。今日もどんよりと曇った空を見ながら、安堂先生の連絡事項に耳を澄ます。聞こえてきたのは、明日が時間割変更になったことで、調理実習があるという説明だ。
昨日のこと、そして今日のことを思い出し、清水照道の顔が思い浮かんで気が沈む。
これから先、あいつの不用意な発言のせいで目をつけられたら最悪だ。ただでさえ今の席は、動画だの写真だのの撮影のせいで変に目立っている。
ぎりりと歯を食いしばっていると、安堂先生は「じゃあ遅れているから、このまま現代文に移行するわね」と言って、教科書を取り出し黒板に向き直る。
「ええ、まじかよ俺トイレ行きたいんだけどー!」
煩い寺田が立ち上がり、わざとらしく股間を押さえながら体を揺らす。先生は「なら今のうちに行ってきなさい」と促しながら、皆を見回した。
「他にトイレに行きたい人も行っていいわよ。それと教科書をロッカーにしまっている子も取ってきていいわ」
先生の言葉に、ちらほら生徒が立ち上がって後ろへと向かっていく。私は机から現代文のノートと教科書を取り出した。後ろからは、ロッカーが開いたり閉じたりする音が聞こえる。
私はあれを、一度も使ったことがない。ロッカーに鍵はつけられていなくて不用心だし、鍵がつけられたとしても鍵穴に接着剤を詰められたりして開かなくさせられるだけだ。学校に教材を置いていけば最後壊されたり、落書きをされる。上履きも面倒だけど、毎日持って帰る。
忘れてしまうこともあるけど、何度も無くなって買いなおすよりずっといいということは、小学校、中学校の頃に嫌というほど覚えた。
教科書を取り出し、ノートも出す。昨日も現代文の授業はあったし、昨日終わったところをページをめくり開いていると、安堂先生は「そうだ」と明るい笑顔をこちらに向けた。
「今日はペアで音読をしましょうか!」