夜10時ーー
いつもなら、壁の向こうから、夜の「おはよう」が聞こえる時間。
だけど今は、何も聞こえてこない。

赤坂先生は、夜まで仕事があるといい、それをしっかり終わらせてから、私の部屋をノックした。
「こんばんは」
私の隣には陽太もいる。
陽太を見て、赤坂先生は目を見張った。何か言いたそうだったけれど、
「こんばんは」
と返しただけだった。
3人で壁の前に座り、じっと壁越しに声が聞こえてくるのを待つ。異様な光景だ。だけど今はなんだってよかった。
聖の声が聞こえるなら。私たちの声に応えてくれるなら。
「本当なの?この壁越しに、聖の声が聞こえたって」
「本当です。信じてもらえないと思いますけど……」
「いいえ、信じるわ」
だってーー赤坂先生は私の目を見つめて、つぶやいた。
「だって、私たちも、この壁越しに、話をしていたから」
「え……?」
「私、昔ここに住んでたの。聖とは家が隣同士の、幼なじみだった。」
先生が、ここに、住んでた……?
うちの家族がここに引っ越して来る前。そのとき先生は、高校生だったーー
「ずっと一緒だったの」
先生は壁を見つめて、言った。まるで、「そうよね?」と、聖に語りかけるように。
生まれたときからずっと一緒だった2人。高校も同じで、毎日一緒に学校に行った。
「誰よりも特別ない存在だった。恋人同士のような、家族のような……私は聖が好きだったわ。でも、気持ちを伝えようとはしなかった」
私には、その気持ちが痛いほどわかっていた。
ーー変わることが、怖かったから。
「そのままでいいと思っていたの。今考えるとすごく子どもじみた考えだけれど、私たちの関係に、名前なんていらないと本気で思っていた」