朝、私は家を出て、隣の家のチャイムを押した。
誰もいないかもしれない、と思いながら。昨日の夜からどんどん大きくなるばかりの、嫌な予感に負けそうになりながら。
数秒後、ゆっくりと、ドアが開いた。
薄暗い玄関に、黒い服の女の人の顔が覗いた。
『おはようございます』
『……何?』
彼女の口から出た短い言葉に、ドキリとした。初めて聞いたその声が、あまりにも聖の声にそっくりだったから。
顔は知らないから似ているかどうかはわからないけれど、声だけで、ああやっぱりこの人は聖のお母さんだ、と直感でわかった。
『あの、お訊きしたいことがあるんです』
彼女は、私を訝しげな目で見ていた。
『聖くんの、ことなんですけど』
その瞬間、彼女の黒い瞳が、怯えたように震えた。
『聖が、なに?』
彼女は私を見ていなかった。
『なんなのよ。聖がどうしたっていうの、ねえ、なんなの、あなた』
『あ、あの、お母さん落ち着いて……』
その取り乱し様に、私は怖くなった。
『その言い方はやめてっ!』
叫び声が、朝の静かな通路に響き渡った。
ドアを閉められそうになり、私はとっさにドアの取ってを掴んだ。彼女の白く骨と皮だけで張り付いているような両腕が、ダラリと力なく垂れた。
『お願い……あの子の話は、もうしないで』
彼女はさっきの勢いをなくし、懇願するように言った。
『あの子はもういないのよ……どこにも、いないのよ』
どこにもいないーーその言葉が、胸に重くのしかかった。
嫌な予感が、本当になってしまった。
信じられないけれど、母親であるこの人が、そんな嘘をつくはずがなかった。
自分の子どもがもういない、だなんて。
『それ……どういうことですか』
じゃあ、私が毎晩壁越しに話していたのは、いったい誰だったんですか。
なんでもいいから、教えてほしかった。
けれど、彼女は私に虚な目を向け、そしてドアを閉めた。
『そのままの意味よ』
という言葉を残して。