「ねえ……なんで?聖……」
しんとしたままの壁に向かって、何度も話しかける。
「なあ光里」
陽太が心配そうに言った。
「引っ越しちゃったのかな……」
「え?」
「あのお母さんと一緒に、どこかに引っ越しちゃったとか」
「光里、おい」
「ーーごめん」
私はいてもたってもいられず、部屋を飛び出した。
リビングでは、お父さんとお母さんがテーブルについて、テレビを見ながら晩酌をしていた。
「どうしたの、そんなに慌てて」
お母さんが振り向いて言う。
「聖がいないの……」
「聖?」
そうだ、と思いつく。お母さんなら何か知っているかも知れない。
「うん。聖っていう、隣の家の男の子」
「男の子……?」
お母さんが陽太と同じような、怪訝な顔をする。
そして、信じられないことを言った。
「隣のおうちに、子どもなんていないわよ」
何を言ってるの?と心底わからない様子で。
それはこっちのセリフだ。いったい何を言ってるんだろうか。
ーー隣の家に、子どもがいないなんて……。
「光里」
呆然と立ち尽くす私に、陽太が後ろから声をかける。
「さっきから話聞いてて、なんか変だなと思ってたんだ。隣の部屋から声が聞こえるなんて」
「どういうこと?」
ゆっくりと振り返ると、陽太の真剣な顔があった。
「生まれたときからここに住んでるけど、隣の部屋の声が聞こえてきたことなんて一度もない。光里の部屋だけ例外なんてこと、あると思うか?」
「…………」
変だと思ったことはある。いや、むしろ、最初から変なことだらけだった。夜の2時間だけしか声が聞こえてこないこと。ほかの生活音が聞こえないこと。お互い素性を知らないまま話したいというお願い。今まで一度もその姿を見たことがなかったこと。
だけど私は、あえて深く考えないようにしていた。
この壁の向こうにはたしかに人がいると、信じていた。
本当はそこには誰もいないなんて、思いたくなかった。
でも、それじゃあ、私は毎日、誰と話をしていたの?
あの夜、屋上で会ったのは誰だったの?