そのときーー不思議なことが起こった。
どこからともなく、歌が聞こえてきたのだ。
哀しい歌には似合わない、のんきな声。調子のはずれた鼻歌が。

「……!?」

一瞬、プレーヤーが壊れたのかと思った。起き上がり耳を近づけてみるけれど、違う。
それに、その声は女の人じゃなく、男の……いや、男の子の声みたい。
自分でそう思って、ギョッとした。

ーー男の子……!?

キョロキョロと部屋を見回してみる。当たり前だけど、誰もいない。
もしかしてーー
信じられないことだけれど、不思議なくらい恐怖心がなかった。だって鼻歌だ。のんきな声に、緊張感を根こそぎ奪われる。
いや、和んでいる場合じゃない。

「だ、誰……?」

CDを止めて、思いきって尋ねてみた。どこに声をかければいいのかわからないから、空中に向かって。
すると、鼻歌も止まった。
「あれ、止めちゃうの?」
「!?」
またしても聞こえた声(しかも今度は鼻歌ではなく、普通に話しかけてきた)に、私はビクッとする。音楽がなくなってようやく気づいた。
この声、壁の向こうーー隣の部屋から聞こえている。
私の部屋はいちばん端にあり、壁の向こうはお隣さんだ。
なんだ、お隣さんだったんだ。
幽霊じゃなくてよかったと、心底ホッとする。
「あ、ごめん、いきなり話しかけたりしたらびっくりするよね」
「はあ……」
話しかけるどころか、あなた今、歌ってましたよね……?
すごくツッコミたかったけれど、ぐっと堪える。今気にするべきなのはそこじゃない。
「初めまして。僕、隣の部屋の者です」
と壁越しに聞こえる声が、妙な挨拶をした。
「本田聖。聖って呼んで」
私が黙っていると、声は勝手に続けた。
呼んでねって言われても……。
「いっかいやってみたかったんだよね。こういうの」
「こういうの……?」
「ドラマとかであるじゃん。はじめまして、僕こういうものですって」
「…………」
さっきの変な挨拶は、なんかのドラマの受け売りだったのだろうか。それにしても、いきなり壁越しに知らない人に話しかけるなんて、ちょっと非常識すぎると思う。
「君は?」
「え?」
「名前、なんて言うの?」
「あ……私は、葉山光里、です」
つい本名を名乗ってしまった。
向こうが本名かどうかもわからないのに。
「光里。よろしくね」
いきなり呼び捨て……!?
私は戸惑いながら、でも心の声を口に出せない。
「さっき、なんで泣いてたの?」
いきなり訊かれて、
「へっ?」
と私は間抜けな声をだした。

ーー聞かれてたんだ。

そう思った途端、恥ずかしさに、顔がかあっと熱くなった。
いったい、いつから聞いていたんだろう。
もしかして壁越しに耳を澄ませていたりして……想像して、寒気が走った。
幽霊より、そっちのほうがずっと怖い。
でも、無視する勇気もなくて。
「い、言えません……」
やっと声に出たのが、その一言だけだった。