10時になった瞬間、カチリ、といつもより時計の音がはっきり聞こえた気がした。
「おはよう」
と聖が言った。
「おはよう」
と私はいつものように返す。
聖との壁越しのやりとりが始まって3ヶ月。最初はぎこちなかった会話も、だんだん緊張感がなくなってきた。でも今日は違う。
「あのね、聖」
私は壁の前に正座して、思いきって言った。もうカモフラージュのための携帯は持っていない。代わりに、CDショップのロゴ入りの袋を握りしめる。
ポストに入れておこうかと思った。でも、やっぱり直接渡したい。断られるかもしれないけれど。
「渡したいものが、あるの。だからーー」
用意していた言葉なのに、緊張して上ずってしまう。まるで今から告白するみたいに。
「あ、会えない、かな」
沈黙がおりた。壁の向こうの聖が、目を丸くしている様子が浮かんだ。
3ヶ月間、声だけだったやりとり。会うことはない。もしどこかで会っても、聖だとは気づかない。
不思議な関係だった。その関係を、私は壊そうとしている。
さっきまでは断られるかもしれない、と思っていたのに、今は絶対に断られる、と思えてくる。だって、そうだ。最初に、お互い何も訊かない、名前しか知らない関係を望んだのは、聖のほうだった。
「あの…嫌だったら」
「いいよ」
聖はあっさりと言った。
「え?」
「いいよ。会おう」
あっさりと言う聖に、私はポカンとする。
絶対、断られると思ったのに……。
「今から、屋上に来れる?」
「えっ、今から?」
「だめ?」
勝手に、もし会うなら明日だと思っていた。
でも、うかつだった。聖と話せるのはこの時間だけ。つまり、会えるのもこの時間だけということだ。
息を呑んで、窓を見る。カーテンの向こうにある暗闇。その中を歩く自分を想像するだけで怯みそうになる。
「で、でも、屋上って今立入禁止になってるけど……」
「大丈夫。入れるから」
と聖はきっぱり、迷いなく言った。
怖い。だけどそれ以上に、聖に会わなければいけないと思った。
だから、
「……わかった。行くよ」
私は壁に向かって、そう告げた。