夕飯を食べてお風呂に入る。その後、9時頃にお父さんが仕事から帰ってきて、夕飯から晩酌に突入するのがいつものパターンだ。お父さんとお母さんはお酒が大好きで、いつも12時くらいまで飲んでいる。
リビングから聞こえる楽しそうな声を確認して、私はそうっと自分の部屋に戻った。
……べつに隠れる必要はないんだけど、なんとなく。
すこし待ってみるけれど、やっぱり部屋はしんとしたまま。あの歌を流していたらまた鼻歌が聞こえてきたりして、と思ってかけてみるけれど、やっぱりうんともすんとも聞こえない。
「……なんなの?」
拍子抜けして、思わず独り言が洩れた。
また明日って言ったのに。こっちは緊張してたのに。
……というか、私はいったい、何を期待しているんだろう。
昨日はあんなにびっくりしたのに、そして警戒もしていたのに、得体の知れない男の子との会話を待っている自分に驚く。
歌が終わって、今度は歌のないカラオケバージョンになる。それも終わり、音が途切れる。
なんだか、待っているのがバカみたいに思えてきた。いくら他の人に話せないからって、なんだかこれじゃ話し相手に飢えているみたい。そもそも会ったこともない人に、そんな個人的すぎる話なんてやっぱりできる気がしないし。
そんなことを考えながら、ベッドに横になってうとうとしかけていたときだった。
「おはよう」
急に壁越しに声が聞こえてきて、ビクッと飛び起きる。いつの間にかベッドに横になって、ほとんど寝かけていた。
「えっ?あ、おはよう」
あたふたと返事をしてから、疑問に思う。
……夜なのに、「おはよう」?
「ごめん、もしかして寝てた?」
「ね、寝てない、です」
本当は寝かけていたけれど、今ので目が覚めた。
時計を見ると、ちょうど10時になったところだ。昨日はたしか、11時だった。もしかして、いつもこの時間に帰ってくるんだろうか。塾とかバイトとかで忙しいのかもしれない。
のんびりした口調からは、あまり忙しさは感じられないけれど。
「寝起きの光里の声、かわいいなあ」
「はぁ?」
いきなり何を言い出すんだろうこの人。やっぱりただの不審者?
「ね、寝てないし、挨拶のついでみたいにかわいいかわいい言わないでください。通報しますよ」
脅しのつもりで言ったのに、
「なんで?ほんとのことなのに」
「…………」
まったく効いていなくて肩を落とす。
冷静になろうと、私は壁の前で正座をした。かなり変な光景だけど、この際気にしない。どうせ誰も見ていないし。
「あの、あなたは、学生?」
思いきって尋ねてみた。
「んー、秘密」
と聖は楽しげに言った。
「そのほうが楽しいから」
「………」
ダメだ。さっそくついていける気がしない。
でも、そうかもしれない、とも思う。
楽しいかどうかはわからないけれど、楽かもしれない、と。
知らない人のほうが、もしかしたら、誰にも言えないようなことも、話せたりするのかもしれない。

『電話って苦手なんだ。お互いの顔がわからないと、何考えてるかわかんないから』

いつだったか、陽太がそう言っていた。
親しい人なら、そうかもしれない。
だけど会ったこともない、顔も知らない人なら、むしろ何も知らないままのほうが、いいのかもしれない。
そこまで考えて、私は名前しか知らない壁の向こうの誰かに、何もかも話す気になっていることに気づいた。