学校からの帰り、マンションの門のところで、またお隣の女の人に会った。会ったというより、見たと言ったほうがいいかもしれない。充分視界に入る距離なのに、こちらに見向きもしないで、覚束ない足取りで吸い込まれるようにエントランスに入っていった。
今日も頭から靴の先まで全身黒づくめだ。おそらく仕事帰りなのだろう、いつも疲れた表情をしている。服とは対照的なほど青白い顔。まるで幽霊みたいに(幽霊を見たことはないけれど)、すうっとその場に消えてしまいそうだった。

『はじめまして。僕、隣の部屋の者です』

昨日、壁越しに聞こえてきたあの変な挨拶が、頭を過ぎった。
あの女の人はたぶん、聖のお母さんなのだろう。確証はないけれど、年齢を考えるとそう考えるのが自然だ。お父さんはいないのか、帰りが遅いのか、一度も会ったことはない。
10年もここに住んでいるのに、私は隣に住む家族のことを何も知らなかった。名前も、どういう人が住んでいるのかも、子どもがいることも、本当に何も知らずに、隣で暮らしていたんだと思うと、信じられない気持ちになる。
それはきっと、今まで私がほとんど隣の家(というか、自分に関係のない人たち)に、関心を持っていなかったから。扉を閉めてしまえばそれぞれの生活があって、その奥にいるどういう人たちかなんて、考えたことがなかった。
でもーーふと思いつく。社交的で顔が広いお母さんなら、もしかして知っているかもしれない。

「お隣の人?」
台所で夕飯の支度をしているお母さんに、さりげなく尋ねてみた。
「ああ、本田さん」
「そうそう、本田さん」
私は前からその名前を知っていたかのようにうんうんと頷いた。
お母さんなら何か知っているかも、と期待したのだけれど……。
「ここに引っ越してきたときに挨拶したきり、ほとんど話したことがないから、よく知らないのよねえ」
と、お母さんは首を捻るだけだった。
「あまり人と関わるのが好きじゃなさそうな人だしねえ……なんで急にお隣のことが気になったの?」
「ううん、べつに……」
隣の部屋から男の子の声が聞こえてきたから、とは言い出せないまま、その話は終わった。
昨日は驚きすぎて冷静に考えられなかったけれど、不思議なことは他にもあった。
10年もここに住んでいるのに、その家の子どもを一度も見たことがないことだ。
年齢はわからないけれど、中性的な声の雰囲気からして、同い年くらいの男の子だと思っていた。でも高校生なら大人の声とほとんど変わらない人もいるし、年齢まではわからない。実際はもっと大人で、普段家にいない人なのかもしれない。
それでも、なんで急に声が聞こえるようになったのかは、わからないままだけど……。
謎ばかりが次々浮かんで、解決しないままふわふわと部屋の中に溜まっていくようだった。
こうなったら、今日の夜聞いてみよう。
また明日と言っていたから、夜にはきっと部屋にいるはずだ。
隣の部屋から物音は何も聞こえない。この時間は家にいないのかな……。
今まではそれが当たり前だったけれど、昨日のことがあったから、今日はとくにしんとしているように感じる。