紗雪の記憶にある限り、父とはほとんど会話をしたことがない。それどころか、父はいつも診療所での仕事やボンドについての会合で家を空けている。実質、紗雪一人なのだ。
 母が刑務所に入ってからも一人だった。だから何も変わらない。最初はそう思っていた。しかし紗雪の中で、母が生きていることはとても重要なことだった。
 母の葬儀を終えて久しぶりに学校に向かった紗雪は、教室に着くと異変を感じた。皆の視線が一斉に紗雪に向けられる。まるで異物が混入したかのような扱い。
 もう慣れっこだった。紗雪にとって、ひどい仕打ちは当たり前になっていた。これくらい耐えられなくてどうする。そんな気持ちを抱いていた紗雪は、自分の席に腰を下ろした。
「ねえ、森川さん」
 突然クラスメイトの女子が紗雪に話しかけてきた。いつもこそこそ話をして、馬鹿にしているだけでしかないのに。今日に限って何故話しかけてくるのか。
 紗雪は、いつしか名前も忘れてしまったクラスメイトに視線を向けた。
「何?」
 クラスメイトの女子は、紗雪の想像もしていなかった一言を放った。
「森川さんのお母さんって自殺したんでしょ?」
「えっ……」
 その一言が引き金だった。紗雪の視界が急に歪み始める。意識が朦朧とし始め、身体に力が入らなくなった紗雪はその場に尻もちをついた。そして急に込み上げてきた吐き気に耐えられず、嘔吐した。
 クラスメイトはそんな紗雪を見て笑っていた。誰一人として、紗雪を擁護してくれるクラスメイトはいなかった。実際に口を出さないクラスメイトもいた。だけどそんなクラスメイトは、見て見ぬふりをしている時点で同類。紗雪の中で、クラスメイトは全員敵でしかなかった。
 皆が母の死を知っていることはわかっていた。母の死はニュースにもなっていたから。それに対して有名になった父もコメントをしていたのだ。だからクラスメイトが知っているのは当然だった。
 わかってはいた。だけどここまで苦しい思いをするとは、紗雪も思わなかった。
 紗雪はそのまま学校を早退することになった。
 翌日。いつも通り紗雪は学校に向かった。しかし激しい嘔吐が紗雪を襲った。まるで自分の身体ではない感覚に襲われ、脳内がとある言葉で埋め尽くされる。
 ――森川さんのお母さんって、自殺したんでしょ?
 自殺、自殺、自殺、自殺。