増家側のサイドテーブルにカフェラテの入ったカップを、自分側のサイドテーブルに紅茶の入ったカップを置いて、対局を始めた。ともにポーンを一つ進める。

 「あれからどうだ?」増家が言った。

 「まだ一週間しか経ってない」

 「忙しくしてんのか?」

 「忙しくはない。じゃなきゃ、君とこんな勝ち戦なんかしてないさ」

 はははと増家は苦笑する。「相変わらずむかつく奴だねえ。しかし、一つ訂正させてもらうぜ。今回ばかりは、貴様の負け戦だ。今回はおれが勝つ」

 「そういう根拠のない自信に満ち溢れてるところ、前から好きだよ」

 「そらどうも」

 それならと言って、増家は一手を打った。「お前も自信持てばいいじゃねえか。もう何遍言ったかわかんねえぞ」

 「僕みたいな人間に、自信を持てる部分があるかい?」

 「謙虚に振舞ってるつもりならやめた方がいいぜ。嫌味にしか聞こえん」

 「振舞ってるもなにも本音だよ。これも何遍言ったことか」

 「無自覚ってのはどこでも悪いもんだなあ。そんなんだから嫌われるんだぜ?」

 僕は黙って駒を動かす。返す言葉が見つからなかった。増家が言っているのは、僕が周囲の人間との関わり方について苦慮していた時期のことだ。当時も今も、僕はあのときの自分の最善の言動がわからない。やがて印象や表情が変わったと言われたが、僕はなにを変えたつもりもない。

 「お前、もう少し自分のこと認めてもいいんじゃねえの? 周りの奴らが言ってたように、お前はなんでも知ってっし、なんでもそつなくこなす。なんでそれを認めない?」

 「僕はそんな御大層な人じゃあないよ」

 「なんでそう思うかなあ」

 「僕はなにも知らないんだ」

 「……ええ?」

 「僕は、なにも知らないんだ。皆が当然のように知っていることを、皆の中で常識の域にあるような物事を。僕は知らないんだ」

 「……いや、そんなこたあねえだろう。お前以上に博識な奴なら生まれてこの方出会ったことがねえし、この世の物事すべてを知ってるような人間なんざ存在しねえ。もしお前に知らないことがあったとしても、そんなでっかく捉えるようなことじゃあ――」

 「別に大きくなんか捉えてないよ。今はね。知らないことがあるから、世界は面白いんだ。まだ新たな発見があるんだから。一つを知れば二つを知り、二つを知れば三つ、時には四つ以上知ることもある」

 ふと、彼女との会話を思い出した。こう捉えれば、世にある物事は、世界という物語の伏線なのかもしれない。尤も、僕はその物語の結末を見届けることはないのだろうが。