店主の名前が平仮名で大きく書かれた看板のコンビニ、扉を押して入ると、店主の男性が「おう」と出迎えた。「こんにちは」と弟は返す。「夏休みかい」と言う店主へ「はい」と答えると、彼は「宿題終わった?」と意地の悪い笑みで問うてきた。「まだ全然」と苦笑すると、店主は「頑張れよ」と、今度は明るく笑った。

 飲み物を一本買うつもりだったが、弟は弁当と一緒にペットボトルを台へ置いた。

 「お弁当の誘惑にゃ敵わなかったって顔だな」と、店主は笑う。

 「夫婦で仲睦まじくおいしいの作るから」と弟は苦笑する。「こりゃ敵いません」

 「うちがやっていけてるのはこのおかげだからな」

 「やっぱり人気なんですか」

 「まあな」

 七百円、と言う店主の声を聞いて、弟は五百円玉を一枚と、百円玉を二枚出した。「ちょうどな」と押し出された袋を受け取り、弟は「どうも」と会釈して、店を出た。


 帰宅後、食事を済ませると、弟はパソコンで動画サイトを開き、隅付き括弧の中に作業用の文字がある動画を流した。適当に音量を上げ、音楽を流す。ソファの前のローテーブルやその下に散乱している、母に片付けて片付けてと言われている宿題を開き、不本意ながらシャープペンシルの上部を二回押す。勉強などなんのためにやるのだろうと、常々思っている。シャープペンシルの正式名称はエバー・レディー・シャープ・ペンシルというらしいが、この知識と同じくらい、テーブルに広げた冊子が並べる文字や図の内容は日常生活に必要ないように思う。

いい学校を出ていい会社に入って、とドラマなんかでよく見聞きするが、学問について延々と語る機械があった場合、それはそのいい会社とやらの役に立つだろうかという疑問がある。その機械が必要ないとすれば、いい会社とやらが求めているのは、勉強ができる人、というわけではないのではないか。過去にこれを、大量に感ぜられる量の宿題を出す先生に言ったら、そういうのは屁理屈というのだと怒られた。先生は勉強をすると将来の役に立つと言っていた。それはいい会社に入れる、という意味だと捉え、弟は先のようなことを言ってみた。それをこじつけの議論だとは、その日も今日も思っていない。