弟は私室の時計で、九時三十分を認めたという。部屋を出て洗顔と歯磨きを済ませ、リビングに入った。そこに兄の姿はなく、兄の部屋にも人の気配はあらず、漠然と嫌なものを感じた。普段の兄が活発であるというのもあろうが、前日の兄は明らかに様子がおかしかった。六年生に喧嘩を売るというのは内心怖くもあり、そもそもそれが兄のためになるとは思っていなかったが、彼の悩みが解消されるのであればそれほどの覚悟もするというのは本心だった。

 弟はかゆい目をこすりながらリビングを出、私室に戻って財布を手に玄関を出た。靴を履くとき、兄が普段履いている白いスニーカーがないことを確認した。扉に施錠して玄関を離れ、弟は、兄はどこへ行ったのだろうと考えた。なにか脅されて、カーキらにどこかへ呼び出されたか。くだらないことを考えて、すぐに否定する。カーキはさばさばした性格で、弱い者いじめだの脅迫じみたことだの、卑劣なことはしない。さばさばしていると同時に、大人びた部分もあり、言いたいことや不満なら、簡単に話し合って解消する人だ。過去に同じクラスになったことがあり、弟もカーキのことはよく知っている。当時カーキは、学級委員長を務めていた。

 では、兄はどこに行ったのか。昨日、帰宅後すぐにパソコンを開いたのを知っている。なにについて調べていたかわからないが、兄が真剣だったのは、その背から感じた。なにか関心が湧くことでもあったのだろうか。それなら、兄の場合、嬉しそうにそれを共有してくるはずだ。今まではそうだった。しかし、今回はそうでない。内密に調べたいことがあるのだろうか。もしくは、共有する意味を見出せず、そうしなくなったか。いや、兄がそうもあれやこれやと考える人であるとは思えない。おれと同じで、基本的に楽観的で喜楽を愛す人間だ。楽しければそれでいい、という考え方なのだ。ときにその楽観さが災いし、人とぶつかったり否定されることもあるが、それも重く受け止めないほどの楽観主義者だ。そんな兄が、わざわざ今までの習慣を変えることなどあろうか。

 やはりなにか大きなことがあったのだろう、と弟は思う。直後、いや、と思い直した。すっかり忘れていた、と少し慌てる。兄は楽観的だけでなく、おれにはない繊細さも持っている。さらに考えすぎるところもあり、普段ならぽやんと受け流す部分を、あるときは大きく重たく受け止めたりもする。弟は、ああと声を上げたくなった。そうだ、昨日の様子は、些細なことを大きく受け止めたときのそれだった。考えながら、彼は自らに、さすが弟、そうでなければ気が付かなかったぞと心中で拍手を送った。