その夜に須田から返事が来た。そうして、着信履歴にも須田の名前が並んでいる。
 私はあれから記憶がぼんやりとしていてどうやって家に帰ってきたのかもはっきりとはしていないのに。晩ごはんも食べてないことを、通知のランプに気付いて思い出した。
 昼間の事を思い出せば、嫌な気持ちしか湧いてこない。だから、返事に長い文章を打ち込めばいつも以上に酷い事しか言えない気がする。
 私に似た人を見た、という内容だったけれど、他人の空似じゃないかと誤魔化した。それから、当分連絡しないで欲しいと続けて打って返せば、返事はなくその代わりに画面が着信に切り替わる。
 渋面で見つめながらコールが終わるのを待つ。でも、待てども、待てどもコールは止まなかった。迷惑を考えてよ、と普段の自分に跳ね返ってくるだろう苦情を胸の内で吐きながらしぶしぶ通話にする。

「相川」
「なに。今日ちょっと頭痛いからもう切らせて」
「相川。今、家の前に居る」
「……」

 乱れた呼吸の合間に、言葉が並ぶ。じわりと胸に湧いた熱に、涙が零れそうになる。
 珍しく須田から掛けてくれたからだろうか。本当か嘘かもわからないけれど、来てくれたからだろうか。カーテンからそっと覗て確かめたい衝動に駆られる。
 でもきっと、姿をみたらいつも以上に酷い事しか言えない。
 どうしてこんな、気持ちになっているんだろう。嬉しいのに、泣きたくなる。

「ホラーはお断りなんですけど」
「ホラー映画イケるって前に言ってなかったっけ?」

 苦笑を零す、その声が少しばかりほっとしているのを聞いてむずむずと複雑な気持ちが生まれる。
 そんな声を聞きたいわけじゃない。ぐっとこらえる。でも普通になんて、今は話せる気がしない。口を開けば、悪態をつきそうで無言のままで待つ。

「あげてくれとは言わないから。話だけ聞いてほしい」
「聞きたくない」

 切ってやりたくて、でも声は聞きたくて。なんて矛盾。
 小さく息を吐くのが聞こえて、やっぱり見られてたんだと確信する。それはお互い様だったようだ。

「……やっぱ、あの時のは相川だったんだな」
「ちがう。今日はでかけてなんかないし」
「……一緒に居たのは、笹原っていって高校の時、部活のマネージャーやってくれてたんだ。相川は……知らないよな」

 淡々と告げられる名前には軽く覚えがある。以前、須田がそんな話をしてくれた気もするけれど、でもそれが本当か、自分の記憶違いかは分からない。知り様がない。だからやっぱりもう考えたくもないから、話の続きを聞こうとも思えない。

「何の事かは分からないけど。須田が誰と居ても私には関係がないよ」
「関係がないって言うのに、声が怒ってる。……今日、本当は別のやつが行く予定だったんだけど空いてたのが俺しかいなくて、代わりにこっちの案内をした。観光に来てたんだけど、本当にそれだけ」
「知らないって」

 この時点でなんて答えても取り繕えないことは分ったけれど、切り抜けるいい案は意識の底だし、須田ももう私が嘘をついたことは気付いていてその点については何も言うことはしないんだろう。いつも通り、それが嫌だと思う。

「笹原は、俺が相川の事を好きな事も知ってるよ。だから初めは断ろうとしてくれたんだ」
「しらない、そんなこと、わたしにいったってしかたがないじゃない……」

 須田が言うからそうなんだろうって、そこにはきっと、私を傷つける様な嘘なんてないと、そう思うのに。思いたいのに。
 名前が出る度に、息が詰まりそうになる。苦しくなる。
 イヤだと思う。須田の口から、誰か別の女性の名前が出てくるなんて。彼女でもなんでもない、須田を都合よく扱っている私はそんなことを言える立場じゃないのに。

「うん。仕方がない。……でも、言い訳だって言われても話しておかなきゃと思った。誤解してほしくないから。だって前にも言ったけど、俺が好きなのは相川だ。俺の場合、それは、相川が俺以外の誰かを好きになっても変わらないのに、……どうにかなりたい訳じゃないって言ったのにな。ごめん、矛盾してる」

 これじゃあなんだか、そう言いかけて須田は言葉を飲み込んだように思えた。須田の声が止んだとたん、しんと静まり返ったその中で、壁に掛けた時計だけがカチコチと音をたてて時間は進んでいることを教えてくる。

「それだけ、言いたかった。用件はそれだけだから。ごめん、付き合わせて。暫く、連絡はやめておく。気が向いたら、また連絡して。どんな小さなことでも構わないし、話も聞くから」

 須田がそこで言葉を止めた。息を飲む気配に、私も一瞬息が止まる。

「前にも言ったけど。相川が、誰かに傍に居て欲しいと思った時に一番に浮かんでくれたらいいと思ってる。時間なんて考えないで、呼び出してくれて構わない。誰かに居てほしかったって、言われるだけでいい。話し相手になって欲しかったってその一言だけでいい。これ以上の距離は望まないから。ただそういう存在でありたいと、我が儘を言わせてほしい。……いつか、俺なんか居なくても大丈夫になった時には、綺麗に消えるから……それまでだけ。誰の代わりでも構わないから俺が必要だって、言ってほしい。ただそれだけだよ」

 ごめん。最後にその一言を残して、通話が切れる。
 ざわりと心がざわついて、私は窓に駆け寄り鍵を開けてベランダに出た。下をきょろきょろとのぞいて、歩いて去っていくのを見つけて慌てて部屋着という何とも外に出向くには似つかわしくない軽い恰好で、バタバタと玄関に向かい持っている中で一番踵が低いミュールをひっかけてドアを開けた。鍵も掛けず、階段を下まで駆け降りて後姿が見えた方にぱたぱたと走る。

「すだ!」

 二十一時を過ぎた頃、家々の灯りはまだついていてそんなにも声を張り上げるのは非常識だと解っていたけれど。それでも、どうにかして呼び止めたくて。
 走ればきっと、追いついた。でも、そうできなかった。足が、止まってしまった。こんな恰好で出てきた事も、鍵を開けっ放しにしてきた事もぽろりと零せばまた注意されるに決まっている。
 でもそんなことより、最後の須田の声が、言葉とは裏腹に弱くて。以前、あの言葉を言われた時の様な、余裕はそこにはなくて。まるで世界の終わりみたいな、そんな声に、聞こえたから。

「私が悪かったです! にげてごめん。わがままいってごめん。聞かないって仕方がないって、言ってごめん。だから行かないで」

 最後はもう泣きかけていて、だだを捏ねた子どもみたいになっていたけれど、それでも須田は立ち止まってこちらを振り返ってくれた。立ち止まってくれた。
 それだけでも気が緩んで、私はまた、天邪鬼な部分を出してしまう。本当に、こんな私を好きだなんて言ってくれる須田の本心が知れない。
 でも出来るなら、これから知って行きたい。知りたいって、ようやく思えた。

「まだたくさん聞いてほしい。須田にじゃなきゃ話せない事が、いっぱいあるから。須田がそうしたんだから、責任とってよ!」

 困惑顔で慌てて戻ってきた須田が「相川、近所迷惑になるから、な? とりあえず落ち着け?」そう言って伸ばした手で私の涙を掬う。
 笑った顔がみたいのにと、ぷかりと一瞬そんなことが浮かぶけれど、今の私はそれ以上に須田をどうにか引き留めたくて仕方がなかった。傍にきた彼の腕をぱっとつかむ。出来る限りの力でぎゅっと、それはもう、駄々を捏ねる子どものように掴んで、要求が通るまで離してやるつもりはない。

「すだぁ」
「わ、ちょ、相川! 本当にご近所さんに悪いから、とりあえず部屋もどろう?」

 おろおろとする須田に手を引かれて部屋に戻る。私がぐずぐずと泣いていると言うのに、須田はさっきの焦りをどこか他所に置いて、案の定、鍵は閉めろと怒られ、そうして部屋着で出て行ったことも注意された。今何時だと思ってるんだ、とも。
 しおしおと項垂れて、めそめそと泣きながら、うんうんと頷き、返事をする。
 気をつけるから、嫌わないで欲しい。見捨てないで欲しい。電話を切る前の須田に感じたのはこれだ。ぷっつりと今までの関係も切れてしまっても仕方がないとさえいえる空気を感じたのだ。
 本当に分かったのかと呆れ疑われ、それから少しばかり落ち着いた私はあの場所に居たことを話して謝った。
 そしてぐずぐずのぐちゃぐちゃのままもう一度、須田のいう言い訳とやらをしかと聞いたのだった。


 ようやく涙も止まって気が落ち着いた私は、明日も講義があるからと帰ろうとする須田にようやく言えた。

「電話、ほんとうは嬉しかった」

 とても恥ずかしくて、埋まりたいくらいだった。瞼はまだ熱を持っていて、少し腫れぼったくも感じる。須田が気を利かせて見繕ってくれた濡れタオルで目元を押さえるように隠しながら。ぼそぼそと、呟く。
 靴を履き終えて立ち上がった須田が、クスリと笑って私の頭をふわりと撫でた。頭を撫でられることだって、髪に触れられることだって無かったわけじゃないのに今回は特別な気がしていっそう恥ずかしくなる。頬が、耳が、赤くなっていることに気付かれませんように。

「そっか。出てくれてありがとう、相川がそう言ってくれただけで十分だ」

 こっそりと須田を見る。
 何でもないことのように、でも、嬉しそうに。それこそ照れて恥ずかしそうに、須田が笑った。
 その笑顔は、ちょっと特別な気がした。