「遅いなぁ……」

 その日の夜、御國は眠ったニコラを腕に抱えたまま何度も扉を見て待っていた。
 いつもならメイドがニコラを受け取りに来てくれる頃だが、今夜はどれだけ待っても部屋にやって来なかった。

「旦那様も来ないし……」

 あの日以降、旦那様は毎晩、部屋に来てくれるようになった。
 その日あったことや、ニコラのことなど取り留めないの話を僅かばかり交わすだけだったが、御國はその時間を大切にしていた。
 病み上がりとはいえ、屋敷内にこもってばかりで、御國の気持ちはだんだん落ち込んでいった。
 最近はティカと話すようになったが、それでも毎日同じ場所で、同じことの繰り返しで気持ちが滅入ってきたのだった。

 だからこそ、旦那様と話して、外の様子を聞ける時間を大切にしていた。
 旦那様は庭に咲いた花や、仕事で出掛けた際で見かけたものについて話してくれた。
 時には、御國がわからないことも話してくれて、それに対して質問をすると、旦那様は丁寧に説明してくれた。
 そうやって、旦那様の話を聞いている内に、やはりここは自分が住んでいた世界ではないのだと、御國はだんだんと理解してきたのだった。

 それ以外にも、最近になって御國には悩みの種が増えた。

「あっ……! またっ……!」

 キーンと頭が痛んだ。
  御國は落としそうになったニコラを慌ててギュッと抱きしめた。
 そうして、御國が最初にニコラに授乳をした時に頭の中に響いた声が、また聞こえたような気がした。

 ――……を、………………ね。

「はぁ……はぁ……」

 御國は詰めていた息を吐き出した。
 旦那様と話した日から、時折、御國は頭痛に悩まされるようになった。
 ほんの僅かだけ頭が痛み、すぐに治るのだが、日が経つにつれて回数が増えていった。
 そうして、頭が痛む時には、必ずといっていい程、御國の頭の中に声が響くのだった。

 何を言っているのかは聞き取れないが、その声は今の御國の声――モニカの声にそっくりだった。
 もしかしたら、頭の中に響いている声は、『モニカ』の声なのかもしれない。

 もし、モニカがまだ身体にいるのなら、御國はこの身体を返すべきなのだろう――モニカ自身に。
 そうなったら、御國はどうなるのだろう。
 元の身体に戻れるのか。それとも――。
  嫌な想像をしそうになった時、部屋の扉が叩かれた。

「失礼します」

 入って来たのは、ペルラやティカとは違う別のメイドだった。

「モニカ様。遅くなり申し訳ありません。ニコラ様を乳母の元に連れて行きます」
「はい、……」

 メイドは丁重にニコラを受け取ったのだった。

 最近知ったのだが、御國が寝ている夜間や、屋敷内で歩く練習をしている間は、旦那様が雇った乳母が、引き続きニコラの面倒を見てくれていたようだった。
 そもそも貴族の家では、赤ちゃんはほとんど乳母が面倒を看ることが多く、母親が育てるのはもう少し後になるとのことだった。
 今の御國のように、ここまで子供につきっきりになることは滅多に無いらしい。

「何かあったんですか? 旦那様もまだ来ていませんし……」

 すると、メイドは困ったように顔を曇らせたのだった。

「王都の中心部で、数台の馬車が絡んだ事故がありました。旦那様はそちらに……」
「えっ……」

 その言葉に御國は言葉を失った。
  頭の中に、血塗れになった旦那様の顔が浮かんできたのだった。

「旦那様は、事故に……?」
「これ以上は、私共にはわかりかねます」

「では、失礼します」とメイドは一礼すると、部屋から出て行ったのだった。
 扉が閉まると、御國はベッドに倒れたのだった。

(旦那様の身に何かあったんじゃ……?)

 もしかして、仕事中に事故に遭遇して怪我を負ったのかもしれない。
  最悪は、死、なんてことも……。

(どうしよう……! こういう時はどうしたらいいんだろう……!?)

 屋敷で待っていればいいのだろうか。
 それとも、様子を見に行くべきなのだろうか。
 ただ、様子を見に行くにしても、どこで事故があったのか、そもそも屋敷から外に出たことが無い御國には全くと言っていい程、この辺りの地理など何もわからなかった。

「こういう時にテレビやスマホがあれば……」

 テレビやスマートフォンがあるなら、最新の情報をいち早く入手出来るだろう。
 この世界にそれが存在しないことが、今はとても悔やまれた。

「大丈夫かな……旦那様……」

 御國は悶々としたまま、一人待つことになったのだった。