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昼休みの災難はそれだけではなかった。
弁当を食べ終わった連中がトイレに立ったり、スマホゲームに興じたりしていると、教室が急に暗くなった。
雨でも降るのかと窓の外を見たけど、むしろ雲の切れ間から日が差し込んでいるくらいだった。
原因は廊下側だった。
詰め襟学生服に身を包んだ一団がずらりと廊下に並んでいるのだった。
今は夏服でワイシャツのはずなのだが、連中は昭和の不良のような長ランという学生服にドカンという幅広のズボンを着用している。
応援団のメンバーだ。
伝統を重んじる彼らにはクールビズなんて言葉はないらしい。
この蒸し暑さであんな格好していて大丈夫なんだろうか。
全員顔が赤い。
立ち上る湯気が見えるようだ。
不穏な空気を感じ取ったのか、さっきまでスマホゲームで盛り上がっていた連中が急に自分の席について英単語の勉強に取りかかりだした。
そういえば午後イチの授業で英単語テストがあるんだったっけ。
うちの探偵殿もいなくなって静かになったことだし、昼寝でもしようかと思っていたんだが、俺もやらなくちゃならないかな。
と、英単語の本を取り出したところで肩をたたかれた。
振り向くと、同級生の小嶋という男子が体で隠すようにしながら親指を廊下に向けていた。
「おい、高橋。団長が呼んでるぞ」
え、俺?
「おまえ、いったい何をやらかしたんだ」と心配されてしまう。
知らないよ。
「短い付き合いだったが、達者でな」
逃げていく小嶋の陰から現れた団長殿の視線がまちがいなく俺を貫いていた。
俺が立ち上がると、まわりのみんなが気配を消して英単語学習に集中する。
今日はさぞかし平均点が高くて英語の先生も喜ぶだろうなあ。
その分、俺にも加算してくれませんかねえ。
覚悟を決めてというより、諦めの気持ちで、教室の出口に立ち塞がる団長殿の前に立つ。
「高橋ってのはおまえか」
はい、と声を出したつもりでも、かすれてしまってただうなずくだけになってしまった。
「ちょっと顔貸してくれや」
本当にお面みたいに顔だけ取り外して貸せればいいんだけどな。
俺が団長殿の後について歩くと、俺を取り囲むように他の団員たちもぞろぞろとついてきた。
これだったら、いっそのこと黒い布をかぶせられて怪盗萌乃に拉致された方がましだったな。
黒い学生服集団に囲まれる方が、無表情な顔が見える分、かえって怖い。
連れていかれたのは体育館わきだった。
うちの高校には古くて大きな第一体育館と比較的新しくて小さな第二体育館の二つあって、その間は簡易屋根のついたコンクリート床のスペースになっている。
運動部の連中が昼練でストレッチをしていたのだが、黒ずくめの集団を見た途端、「ようし、今日はここまで。また放課後!」と、あっという間に姿を消してしまった。
立ち止まった団長殿がゆっくりと振り向く。
俺の後ろはすでに男臭い汗の匂いがする壁で固められていた。
後ずさりすることもできないまま団長殿と見つめ合うことになってしまった。
「おまえ、高橋とどういう関係?」
「高橋は自分ですけど」
団長殿が目をむく。
「おまえふざけてんのか。高橋っつったらよお、萌乃のことに決まってんだろうが」
あの、ええと、高橋といえば普通は金メダルとか名人とか手帳とか、他にもいろいろあると思うんですけど。
いったいいつから『高橋といえば萌乃』なんて決まったのでしょうか。
だいたいなんで俺が、俺じゃない高橋のためにこんなことに巻き込まれなくちゃならないんだよ。
萌乃のやつ、何をやらかしたんだ。
「家が近所で同じ中学出身で、同じ苗字ってだけです。親戚でも何でもないです」
そうか、とうなずきながら団長殿が間合いを詰めてきた。
「演劇部のイケメンいるじゃんよ」
「二年の橘先輩ですか」
公演は見たことはないけど、いちおう名前だけは聞いたことがある。
セリフは棒読み、演技は大根だけど顔だけでファンがいるそうだ。
それでも、萌乃にすらイケメンの正反対と馬鹿にされる俺なんかからしたら正直うらやましいことだ。
その人がどうしたんだろうか。
「あと、放送メディア研究部の部長もコクったらしいんだけどよ」
コクる?
ええと……、ワインのボトルにはめるアレですかって、それはコルクで……。
俺の頭の中で『コクる』という文字がゲシュタルト崩壊していく。
「あいつ、他に好きなやつがいるって断ったんだってよ」
ホカニスキナヤツガイル。
もはや日本語の会話とすら認識できなくなってしまった。
「タカハシイ! おまえなんか知ってんじゃねえのか」
知ってるどころか、理解できないんですけど。
でも、団長殿の顔がどんどん近づいてきて、お笑い芸人ならキスの距離だ。
この状況なのに笑いがこみ上げてきてしまう。
俺は必死に唇を噛みしめて痛みで笑いをこらえようとした。
何か言わないとまずいのに口を開こうとすれば笑ってしまいそうだ。
どうしろっていうんだよ。
俺はのけぞりながらようやく答えた。
「いや、何も知らないです」
「でもよお、おまえさあ、いつも萌乃と一緒にいるそうじゃねえかよ」
あ、ええと、それはですね……、左衛門のお嬢様といつも一緒にいるという方が正しくてですね……、俺はただのオマケです、ハイ。
でも、口が渇いて、言葉が乾いた砂のようにボロボロと崩れ落ちて声にならない。
「あいつの好きなやつって、まさかおまえじゃねえだろうな」
んなわけないっすよ。
とんだ濡れ衣ですよ。
俺は首がちぎれ飛ぶほどの勢いでぶんぶん振りまくった。
ぅおえ、気持ちが悪い。
団長殿がそんな俺の頭をおさえつける。
「ほんとか!? ああ!?」
もはや首を振る気力すら出てこないけど、否定しないと肯定と受け取られてしまう。
ああ、こうして冤罪事件は捏造されていくんだな。
「でも、その、なんでそんなことを……」
「んだとおぉ!」と団長殿が俺の胸ぐらをつかむ。
母上、先立つ不孝をお許しください。
遺書くらい書いておけば良かったな。
さっきの探偵の遺書が頭をよぎる。
『この遺書を母上がお読みになっておられるということは、もう僕はこの世にはいないのでしょうね……』
しかし、団長殿は急に俺を突き飛ばすように手を離しながら天を仰いだ。
「そりゃあ、おめえ、なんだ……、その……、まあ、つまりだな。校内の人物について把握しておくのも団長としての務めだからだ。何か文句あるか!」
いえ、ありません。
ございませんですとも。
ごもっともでございます。
と、そのときだった。
「優一郎殿、ここでしたか」
いつの間にかうちの名探偵殿が横に立っていた。
手には一枚の紙を持っている。
「さっきから探していたのですよ。見つかって良かったです。もうすぐ昼休みも終わりでしたから」
なんで俺がここにいるって分かったんだろうか。
初めて名探偵らしいことをしたんじゃないか。
「お、おう。どうしてここにいると?」
「探し歩いていたところ、名前を怒鳴りつける声が聞こえたものですから。この高校には高橋という生徒は他の学年にはおらず、一年生の優一郎殿と萌乃さんの二人しかいません。萌乃さんは先ほど隣の教室にいましたから、そうなるとあとの一人は優一郎殿でしょう」
ずいぶんとまあ、単純な話だ。
推理とすら呼べない推理だな。
ひと呼吸おいて名探偵殿が左手の人差し指を立てた。
「ちなみに、佐藤は三年生と二年生に男子が一人ずつ。鈴木は各学年に一人、こちらはすべて女子ですね。校内の人物について把握しておくのも探偵としての務めでしょう。全員が容疑者になる可能性がありますからね」
それはまた、ずいぶんと物騒な意見でございますね。
お嬢様は応援団のメンバーなど眼中にないのか、俺のすぐそばに来て勝手に話を進めていく。
「優一郎殿はこの文化祭のチラシを見ましたか」
いや、あの、この状況でそれに返事をしなくちゃならないんでしょうか。
しかし、空気を読まないお嬢様の出現に戸惑っているのは俺だけではないようだった。
割って入ってくる左衛門のお嬢様から団長殿が慌てて一歩下がる。
「ウッス! お世話になっております」
団長殿が一礼すると、壁になっていた他の団員たちも一歩下がっていったん姿勢を正してから、腰を直角に曲げて頭を下げた。
左衛門のお嬢様が不思議そうな目で彼らを眺めた。
「優一郎殿は、こちらの方々とお話をなさっていたのですか」
いや、逆にそう見えなかったという方がすげえよ。
団長殿が再び頭を下げる。
「いえ、我々の方こそ大事なお話の邪魔をしてすみませんでした」
そうですか、と姫君が鷹揚にうなずく。
「怒鳴り声がしたようですが何か事件でも?」
「いえ、とんでもありません。校内の秩序を乱す不届き者は我々が許しませんから」
「それはご苦労様です」
「ウッス! 左衛門先輩には大変お世話になりました」
「ああ、颯介殿ですか」
「ウッス! 母校の硬派な伝統はしっかりと我々が受け継いでいると、よろしくお伝えください。失礼します!」
ふたたびきっちり九十度に腰を曲げて後頭部が見えるほど頭を下げてから、応援団一同が去っていく。
どうやら気まぐれなお嬢様のおかげで助かったらしい。
いや、左衛門一族の影響力のおかげか。
「颯介っていうのは左衛門家の親戚なのか?」
「分家筋のわたくしの従兄です。ちょっと変わり者ですが」
あなたがそれを言いますか。
「昨年度までこの高校の生徒でした。わたくしと入れ替わりですね。応援団長を務めておりましたので、さきほどの方々とも交流があったのでしょう」
こんなところまで左衛門の血筋に支配されているとは、もはや驚くことでもないようだ。
「大学進学を断念して、卒業後は野生動物の写真を撮りに行くと旅に出たきり帰ってこないそうです」
自分探しというやつか。
「応援団長をやってたなんて、なんか格闘技でも強いのか?」
「ええ、空手をたしなんでいます」とお嬢様がうなずく。「ですが、腕相撲をすると勝つのはいつもわたくしです。ですから、腕前はそれほどでもないのでしょう」
それは相手が手加減したんじゃないのか。
シスコンなのかもな。
従妹だからイトコンか。
どちらにしろ親戚が関係者だと、応援団の連中も左衛門のお嬢様には気をつかうだろう。
「優一郎殿もわたくしと手合わせしてみますか?」
俺はうまく『接待』できる自信がないし、姫君の手をつかんだりしたら、それこそ防犯警報が鳴り響くだろう。
『ピンポンパンポン。市民の皆様にお知らせします。左衛門のお嬢様の手を握ろうとする不届き者が出没しました。目撃された方は速やかに警察へ通報をお願いいたします』
そんな放送を流されたら俺の人生が終わってしまう。
返事に困っていると、ちょうどうまい具合に昼休み終了の予鈴が鳴った。
俺たちは教室に戻ることにした。
横を歩く姫君が尋ねた。
「さっきは何の話をしていたのですか」
「なんか萌乃のことを聞かれたんだが」
「まあ、萌乃さんが何か陰謀に巻き込まれているということでしょうか」
いや、どちらかといえば俺の方が巻き込まれたと思うんだが。
「どうやらこの物語はハードボイルドな探偵小説ではなく、ピュアなラブストーリーだということを言いたかったらしい」
姫君が左手の人差し指を立てて振る。
「あなたは何を言っているのですか。名探偵の助手ならばもっと論理的に話しなさい」
論理の対極にいるような連中だと思うんですけどね。
俺は無理矢理話を変えた。
「それより、さっきのチラシは?」
「ああ、そうですね。これです」
『放送メディア研究部主催、鍋高祭ミスコン参加者募集。推薦人を五名集めてエントリーしてください』
へえ、ミスコンねえ。
うちの高校の文化祭は『鍋高祭』と呼ばれている。
鍋高というのは高校の名前ではなく、鍋蓋山という丘の上にある高校だから伝統的にそういう呼称になっているらしい。
最近はいろいろな社会的問題の影響でこういう美人コンテストはあまりやらないようになっているそうだけど、男女両方を審査するという名目で存続しているようだ。
つまり、ミス&ミスター・コンテストなのだろう。
そういえば、演劇部二年生のイケメン先輩も、去年のコンテストで優勝したという触れ込みだったっけか。
姫君は少し興奮気味に俺の顔をのぞき込んできた。
「わたくしにふさわしいとは思いませんか」
まあ、確かに、左衛門真琴は変人ではあるが、背が高く、すらりと凹凸のないモデル体型で、顔立ちはそれなりに整っている。
遠くから薄目でなんとなくぼんやりとそこはかとないイメージを眺めている分には、なかなか悪くはない外見なのかもしれない。
何かの間違いが起こる可能性もゼロではないから、そこそこ票を集めそうな気もするけど、優勝はどうだろうか。
難しいだろうな。
ただ、本人に向かってそれを指摘する勇気など俺にはない。
うちの名探偵殿はかなり乗り気らしい。
「なにしろ、ミステリー・コンテストですからね。この高校にこのわたくしを超える名探偵がいるとは思えません。わたくしが出なくてはこの企画自体が成り立たないでしょう」
はあ?
聞き間違いじゃないよな。
ミステリー・コンテスト?
俺はチラシを二度見した。
どこにもそんなこと書いてないんですけど。
どこをどう見たらそんな話になるんだよ。
「知っていましたか。あの湯けむり刑事役の直木藤人が優勝したのもこのコンテストなのだそうです。いわば名探偵の登龍門と呼ぶべきコンテストではありませんか」
いや、それは関係ないと思うんですけど。
しかし、風変わりなお嬢様には何を言っても無駄なようだった。
やれやれ、俺に平穏な夏休みは来るんだろうか。
あ、しまった。
それよりも午後イチの英語で単語テストがあるんだった。