「やっぱり無理よ。今から高座の準備なんてできないし、それに、道具や着物だってないし……」

 完全に乗り気の明日香とは対照的に、紗代はまだ一歩を踏み出す勇気が出ないらしい。あれこれと言い訳を並べて、明日香や大輔から目を逸らす。
 すると、大輔が舞台にいる志希たちの方へ目を向けた。

「――だそうです! お願いします、小日向さん、荒熊さん!」

「任せてください!」

「バッチリです! 抜かりはありません!」

 志希と荒熊さんの自信満々な声に、明日香と紗代がどういうことかと振り返る。
 舞台の上には、いつの間に用意したのか高座がすでにセットされていた。その脇には、着物を吊るしたハンガーラックが置かれ、しかも志希は大事そうに扇子を手にしている。
 用意した言い訳という名の外堀がすべて埋められており、紗代は唖然としている。
 大輔は、そんな紗代の肩に、再び手を置いた。

「さあ、あとは紗代さんの気持ち次第。もちろん、無理は言わないけどね」

「私は……」

 外堀を埋められてもまだ決心がつかないのか、逡巡する紗代。
 そんな紗代の手が、小さなふたつの手によって引っ張られた。

「やろうよ、おっかさん!」

「明日香……」

「ずっと夢だったんだ。おっかさんと一緒に落語会をすることが。しかも、おとっさんが観ている前でなんて、夢みたい! やろう、おっかさん!」

 弾んだ声で、明日香は紗代へ訴えかける。
 久しぶりに見る娘のはしゃいだ姿に、紗代の表情がスッと変わる。そこには、もう怯えも諦めもない。紗代の中で何かが切り替わったのが表情から伝わってくる。
 心を落ち着けるように深呼吸をした紗代は、大輔の目を真正面から見つめた。

「……わかった、見せてあげるわ。私の――『明日ノ家桜花』の落語を」