「どうぞ。当店自慢のブレンドコーヒーです。体が温まりますよ」

 紗代が大人しくカウンター席に座ると、荒熊さんは淹れ立てのコーヒーを彼女の前に置いた。
 紗代は「ありがとうございます……」と言って、ブラックのまま一口飲んだ。
 そして、紗代はカップをソーサーに置き、黒い液体の表面に映る自身の顔を見つめる。しばらくそうしていると、彼女は「落語が……」と口を開いた。

「落語が……嫌いなわけではない。私は……今も落語が好きです」

 紗代はゆっくりと、しかしはっきりそう言った。
 志希は、隣で明日香が息を呑んだのを感じる。そんな明日香の手をしっかりと握り、志希は荒熊さんと紗代の会話に耳を傾ける。

「では、どうして落語を捨てようと思ったのですか?」

「……そうでもしなければ、私は自分を保てなかったんです」

 荒熊さんの問い掛けに、紗代は少しの間をおいて、噛み締めるように答える。

「私だって、できることなら明日香と一緒に大好きな落語を続けていきたかったです! だって、落語はあの人や明日香との絆で、私の大切な一部だから! 明日香と一緒に、もっと、もっと……」

 紗代の声が、強く大きくなっていく。溜め込んでいた思いを吐き出すように、紗代は言い募る。
 ただ、紗代から発せられていた思いの奔流が不意に揺らいだ。

「……でも、ダメでした。私は、いまだにあの人の死を乗り越えることができないんです……。落語に触れようとすると、あの人のことを思い出して涙が止まらなくなってしまう。あの人がいない現実に体が震えて、何もできなくなってしまう……」

「紗代さん……」

「私は、本当に弱い人間なんです。だから、落語から逃げたんです。そうしなければ、自分が壊れてしまいそうだったから……」

 体を震わせる紗代が、懺悔するように言葉を重ねていく。