荒熊さんに呼ばれ、志希も張り切ってスコーンの準備に取り掛かる。
スコーンをオーブンで温めながら、冷蔵庫から梅ジャムを取り出す。すると、コーヒーを淹れている荒熊さんが、後ろ手にブイサインをしているのが目に入った。
なるほど、と思いつつ、志希は梅ジャムをいつもよりスプーン二杯分多く盛りつける。新しい門出を祝して、お店からのサービスということだろう。
スコーンの準備を終えてコーヒーを受け取りに行くと、ジャムの小皿を覗いた荒熊さんが小声で「グッジョブ!」と言ってくれた。
「どうぞ、ブレンドコーヒーとスコーンです」
「ありがとう、志希ちゃん」
志希にお礼を言った源内は、まずコーヒーの香りを十分に楽しんで一口。そしてスコーンを手に取り、梅ジャムをたっぷり塗って頬張る。
梅ジャムの味を堪能した源内はスコーンを皿に置き、ほう、と満足げに吐息を漏らした。
「やはり、この梅ジャムと荒熊さん特製ブレンドコーヒーの組み合わせは最高だ。この味を忘れることは、きっとできないだろうな……」
ポツリと呟いた源内は、カウンターの中で並び立った志希と荒熊さんへ視線を向ける。
「明日からは引っ越しの準備が忙しいから、もうここへ来ることはできない。けれど来年、梅ジャムがおいしい季節になったら、またこの店に来るよ。――今度は、家族を連れてね」
「ええ、お待ちしていますよ」
「私も、楽しみにしています!」
再びこの店を訪れることを約束する源内に、志希たちは歓迎の意を伝えるのだった。
* * *
コーヒーとスコーンを心ゆくまで味わった源内は、「今日はありがとう。それでは、また」と、もう一度礼を言って帰っていった。
実にあっさりとしたお別れとなったが、だからこそ逆に、志希はこれが今生の別れではないのだと実感することができた。
「荒熊さん、今日は私のワガママに協力してくれて、どうもありがとうございました」
「気にしない、気にしない。店の常連さんの背中を押して上げるのも、神様兼店長の役目だからね」
源内の見送りを終えた志希が感謝を伝えると、荒熊さんはいつも通り飄々とした様子でヒラヒラ手を振っていた。本当にこの店長は、気のいい神様だ。
源内が帰ると、志希は荒熊さんとふたり、急いでバー開店の準備だ。いつもより短い時間で慌ただしく準備を済ませ、開店時間と同時に未成年である志希は二階へ引っ込んだ。
ひとまず自室に戻り、制服から部屋着に着替える。そのままベッドに腰かけると、一日の疲労でコテンと布団に転がりたくなった。
「……いけません。まだ、晩ごはんを作っていないですし、お風呂も沸かさなければ……」
布団の誘惑を断ち切り、「よいしょ」と口にして立ち上がる。
と、その時だ。不意に両親の顔が、志希の視界の端に入ってきた。
「…………」
志希は無言のまま、両親の遺影を置いた棚の前に立つ。きちんとしたものを買えるほどのお金はないので、ふたりには申し訳ないが志希は棚の上に布を敷いて、そこを仏壇の代わりとしていた。
「お父さん……。お母さん……」
父と母、それぞれの遺影に向かって呼びかける。ふたりはそれぞれの写真の中で、穏やかに笑っていた。そしてふたつの遺影の間には、二人の位牌と形見である結婚指輪が置いてあり、指輪が蛍光灯の光を反射して輝いている。
志希は本棚から両親からもらった絵本を取り出して抱き締め、遺影の中の母を見つめた。
「お母さん……。私、少しはお母さんへの罪滅ぼしができたでしょうか」
志希は、まるで答えを求めるように、か細い声で遺影の中の母に問い掛ける。
しかし、それに答える者がいるはずもなく、志希の問いは部屋の中に溶けて消えていった。
志希がブックカフェあらいぐまに住み込み始めて、一カ月弱。三月も末を迎え、外はより一層春を感じさせる陽気となってきた。
そして、あらいぐまの景気も春真っ盛り。志希が働き始めたことが良い効果を生んでいるのか、あらいぐまの今月の売り上げは一昨日の段階で前年三月の売り上げを上回ったらしい。
ちなみに、志希にそれを教えに来た時、荒熊さんは「商売繫盛、いえーい!」と千円札を十枚ほど広げて片手団扇していた。完全に有頂天である。あと、団扇に一万円札を使わないところに荒熊さんの気の小ささが垣間見えて、何とも微笑ましかった。
そんな、気候とともに店の懐も温かなとある日の朝。
いつも通りカフェの開店準備をしていた志希は、不意に「そういえば……」と何かに気が付いた様子で、グラスを磨く荒熊さんの方を見た。
「今さらなのですが、荒熊さんは何の神様なのですか?」
「どうしたの? 藪から棒に。前にも言ったけど、僕はこの町の土地神だよ」
「ああ、いえ、それは前に聞いたので知っているのですが……。“学業の神様”とか“芸能の神様”とか、そういう得意分野的なものはあるのかな、と……」
「ああ、なるほど。御神徳のことね」
志希がどう言い表していいのかという風に説明すると、合点がいったらしい荒熊さんはちまちました動きでポンと手を打った。……かわいい。
「僕はね、そっちの方だと“縁結びの神様”ってカテゴリに入るよ。この間の本の記憶に入る御業も、本と人の間にある縁を強化するってものだしね。僕が神使として仕えていた前の土地神が縁結びの神様だったから、僕が土地神になる時、それも受け継いだんだ」
「前の土地神様……ですか? 荒熊さんは、ずっと昔からこの町の土地神だったわけじゃないんですか?」
「うん、そうだね。僕がここの土地神になったのは、五十年くらい前の話だよ」
そう言って荒熊さんが語ったのは、彼が土地神になるまでの物語だ。
荒熊さん曰く、彼も最初はただのアライグマだったらしい。それも、日本生まれではなく、アメリカ生まれの。
「僕がまだ仔アライグマだった頃ね、森で親とはぐれちゃってさ。その後、なんか色々あった末に黒い船に乗っちゃったんだよね。で、人間に見つからないよう隠れていたら、何か日本の浦賀ってところに着いちゃってさ」
「それ、もしかしてペリーさんの黒船では……」
そういえば船で一番偉そうな人がそんな名前だったね~、とのんきな荒熊さん。
ともあれ、黒い船を降りた荒熊さんは日本での新生活を始めたらしい。
「でも、すぐに食いっぱぐれちゃってね。行き倒れていたところを、前の土地神に拾われたんだ」
そう言って、荒熊さんが遠い目をする。なぜか、毛皮越しにもわかる青い顔で……。
前の土地神は、荒熊さんのことを大層珍しがったらしい。そして、おもしろそうだから、と自分の神使にしたそうだ。
「で、それからは前土地神にこき使われる毎日だよ。あの人、優しい顔してアライグマ使いが荒いったらありゃしなくてさ。炊事洗濯、他の神様へのお使い……。百年近くパシリにされたよ」
「百年も……。それは、大変でしたね」
嘆き口調の荒熊さんに、志希は同情的な視線を向け、労わるような言葉を掛ける。
しかし、これがいけなかった。志希が親身に話を聞いたことで、荒熊さんのスイッチが入ってしまった。
「そう言ってくれるのは、志希ちゃんだけだよ~。それでさ、五十年前にあの人、いきなり何て言ったと思う? 『ちょっと日本全国巡ってくるから、君、土地神やっといて』だよ! それでさっさと僕に役目と権能の一部を預けて、神社から出て行ってさ! もうほんと、あの時は何日か開いた口が塞がらなかったよ」
「それは……はい。心中、お察しします……」
「しかもあの人、いまだ悠々自適に全国漫遊中でさ。十年に一度くらい帰ってくるけど、土地神に戻る気はゼロみたいなんだよね。……ほんとにあのダメ土地神、次に帰ってきたら眼鏡叩き割ってやろうか」
はあ~、と重いため息をついて首を振る荒熊さん。もはや過去語りでも何でもなく、ただの愚痴大会である。今がバーの開店前だったら、店の酒でも取り出して飲み始めそうな勢いだ。
最初は同情的だった志希も、辛うじて笑顔は保っているが完全にお困りムードだ。
ただ、このまま荒熊さんを愚痴らせておくわけにもいかない。放っておけば、いつまでも愚痴っていそうだし……。志希は気を取り直し、荒熊さんに申し訳なく思いつつも、この流れをぶった切りにかかった。
「ま、前の土地神様の件は置いておくとしまして、縁結びの神様というのはちょっと意外でした。私、荒熊さんは商いの神様かと思っていましたので。自分でカフェを経営していらっしゃるくらいですし」
「このお店は、ただの趣味だよ。神社にずっといるのって暇だしね。神社の方は神使がいれば何とかなるし、僕はこの店を経営しながら、町のみんなを見守っているんだよ」
割とあっさり愚痴モードから戻ってきた荒熊さんが、得意げに胸を張る。
その言葉から、荒熊さんと前の土地神様って似た者同士なのでは、と思った志希だったが……あえて口には出さなかった。
「それにね、自分で言うのもなんだけど、アライグマって縁結びの神様に向いていると思うんだよね」
「そうなのですか? でも、どうして?」
理由がわからず、志希が不思議増に首を傾げる。
すると荒熊さんは、今度は腰に手を当ててふんぞり返り、こう答えた。
「だって、アライグマは一夫多妻制だもん! しかも、毎年パートナーが変わる! つまりアライグマのオスは、縁を結ぶのがとても得意なのです!」
「ああ、なるほど。そう言われると、確かに頼もしい気が……」
自信満々な荒熊さんに若干気圧されつつ、感心した様子で拍手をする志希。ただ、すぐに何か思い至った様子で、志希は「あれ?」と首を傾げた。
「でも、毎年パートナーが変わってしまうのだと、結んだ傍から縁が切れていくってことなのでは……?」
「……………………。さて、無駄話はここまでにしようか。仕事しなくちゃ」
志希の問い掛けに長い無言の間で答えた荒熊さんは、さっさと開店準備に戻っていった。
志希もツッコんではいけない気がして、それ以上は何も言わなかった。
と、その時だ。開店前の店の入り口が開かれた。
「明日香ちゃん。おはようございます」
「おはよう、志希の姐さん! 今日もよろしくね!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
外からひょっこり顔を覗かせたのは、今日も元気な明日香だ。今は小学校が春休みなので、最近は毎日のように顔を見せている。
店に入ってきた明日香は、自分用のエプロンを手早くつけて、テーブルを拭く志希のことを手伝い始めた。
志希はテーブルを拭く手を休めないまま、明日香に話し掛ける。
「今日は暖かいですね。もうすっかり春という感じで、お散歩をしたら気持ちよさそうです」
「そうだね。桜もまだ綺麗に咲いてるし、絶好のお花見日和ってもんだ」
明日香とふたり、「いいですね、お花見」「いいよね~、お花見~」と笑い合う。
こうしていると、本当の姉妹みたいだ。
「ところで、明日香ちゃんは春休みに、家族でどこかお出掛けはしないのですか?」
「残念ながら、そんな予定はないね。うち、母子家庭なんだ。おっかさんは仕事で忙しいから、あたしに構っているヒマなんざねえのさ」
芝居がかった大仰な仕草で、明日香がやれやれとため息交じりに首を振る。
先程の荒熊さんに続き、なぜかまた地雷を踏み抜いてしまったらしい。のほほんとしていたのから一転、顔を青くした志希は、あわわ……と慄きながら、急いで明日香に頭を下げた。
「ごめんなさい、明日香ちゃん。私、とても辛いことを言わせてしまって……」
「ああ、気にしないでいいよ、姐さん。片親なんて、今時珍しくもないんだしさ」
ペコペコ何度も頭を下げる志希に、明日香はカラッとした笑顔を見せる。
どうやら本当に、明日香は気にしていなかったらしい。明日香を傷つけていなかったとわかり、志希もホッと胸を撫で下ろす。
しかし……。
「それにさ、一年前におとっさんが交通事故で死んでから、あたしはおっかさんとの折り合いが悪くてね。おっかさんは、あたしに落語をやめさせたい。あたしは、落語をやめたくないってな具合で……。だから、仮におっかさんが家にいたとしても、一緒に出掛けたりなんかしないだろうね。息が詰まるだけさ」
これまた芝居かかった大仰な身振り手振りで、明日香が笑い話のようにそう続けた。
しかし、口調や仕草とは裏腹に、明日香はどこか物悲しい雰囲気だ。その上、やや虚ろな目で哀愁を感じさせる重いため息までついていた。
志希、再び真っ青である。どうやら志希が踏み抜いた地雷は、連鎖式であったようだ。それも、連鎖する度に威力が倍増していく系……。
「志希ちゃーん、もうすぐ開店時間だから、表を少し掃いてきてくれる? 明日香ちゃんは、テーブルの紙ナプキンとか補充しといてくれる?」
志希が泣きたい気分になっていると、そこに荒熊さんから声が掛かった。
見れば、荒熊さんは小さい手でサムズアップしていた。あとは任せといて、とでもいうように。どうやらドツボに嵌る志希を見かねて、助け舟を出してくれたようだ。
志希は、ありがとうございます、と荒熊さんへアイコンタクトを飛ばし、箒とちり取りを持って外へ出る。
表を箒で掃きながら、志希は重いため息をついた。
「本当に今日は、どうなっているのでしょう。話せば話すほど裏目に出てしまいます……」
普段はこんなことないのだが、今日はどうにも星の巡りが悪いらしい。もしくは仕事に慣れてきた自分に対する、油断するな、という天からのお告げか。
「どちらにしても、気を付けないといけないですね。お客さんに粗相をしてしまったら、店の評判を落としてしまいますから」
油断大敵、勝って兜の緒を締めよ。志希は気を引き締めるように、両の拳をぐっと握って「頑張りましょう」と気合を入れた。
* * *
今日は平日ということもあって、お客さんの入りは比較的緩やかなものだった。
お昼時は荒熊さんのサンドイッチメニューを求めてお客さんが入ったが、それを過ぎると店にいるお客さんはほとんど常連さんだけになった。
「ごちそうさま! 旦那、新作のキウイジャム、甘酸っぱくてメッチャうまかったよ!」
「ありがとう。挑戦してみて良かったよ」
手伝いを終えた明日香と荒熊さんが楽しげに会話するのを、志希は横で洗い物をしながら聞いていた。
荒熊さんの新作ジャムは、どうやら当たりだったらしい。カフェが閉店したら、味見させてもらおうと心に決める。
志希がそんなことを考えていると、不意に荒熊さんがカウンターの下から座布団を取り出して、明日香にニヤリと笑い掛けた。
「それはそうと、今日もやってくかい?」
「いいの!? やるやる!」
荒熊さんから座布団を受け取り、明日香がうれしそうにコクコク頷く。
明日香が椅子の上に座布団を敷いて正座すると、荒熊さんは店中に聞こえるようにアナウンスを始めた。
「えー、みなさん! お立合い~、お立合い~。ブックカフェあらいぐま、本日もイベントの時間がやって参りました。うちの看板娘その一、明日香ちゃんの落語会、間もなく開演で~す!」