そして、そんな志希の感情は、またもや源内に伝わってしまったようだ。源内は志希に向かって「気にしないでいいよ」と労わるように言った。

「こんな風に言っていいのかわからないが、私としては二人に最後まで話を聞いてもらえてよかったよ。二人に昔のことを話したら、何だか心が軽くなった。最近は新しい生活のことを考えて気が重くなることも多かったから、余計に晴れやかな気分だ」

「新しい生活……ですか?」

 俯いていた志希は視線を上げて源内の方を見つめ、その言葉を繰り返す。
 源内はひとつ頷いた後、「いい機会だから、これも言っておこうか」と言葉を継いだ。

「実はね、隣の県に住む息子夫婦から、一緒に暮らさないかと誘われてね。私ももう歳だし、その申し出を受けることにしたんだよ。だから、もうすぐこの店にも通えなくなる」

 引っ越しは来週末の予定だ、と源内は穏やかに語った。

「それは……残念です」

「私もだよ。この店は、私のお気に入りだからね」

 残念そうに尻尾と耳を垂れる荒熊さんへ、源内が微笑みかける。
 だが、その微笑みには、すぐに影が下りた。

「ただ――正直に言うとね、私は新しい生活を始めることが少し怖いんだ。妻もいなくなった今、私は一人で新しい生活に馴染めるだろうか、とね。だから、最近は余計に妻のことを思い出すのだろう。『叶うものならもう一度、あの公園で妻と梅の花を見ながら万葉集を読みたい』なんて考えてしまうほどだから、情けない限りだ」

「……情けないことなんて、少しもないですよ」

 荒熊さんと源内の会話を聞いていた志希が、首を振る。
 大切な奥さんを亡くして半世紀ぶりに一人になって、息子さん夫婦のところとはいえ、住み慣れた町からも離れていこうとしている。それを不安に思うのは、人として当然のことだ。情けないはずがない。

「ありがとう。志希ちゃんは、優しいね」

 志希の気遣いを受け取った源内が、いつもの穏やかな笑みを見せる。

「ともあれ、この店に来られるのもあと少しだけど、これからもよろしく頼むね」

 そう言うと、源内はお勘定を置いて帰っていった。
 その背中に、志希は寂しさを感じるのだった。