十二時間のフライトはつつがなく終了した。
 おれは窓際の座席に着いたまま、他人を突き飛ばしながら我先に降りていくあわてんぼうたちを見送った。だらだらぞろぞろと、くたびれた顔の人々がそれに続く。
 ギリギリおねえさんと呼べなくもないキャビンアテンダントのおばさんが、窓際から動かないおれに、じろりと横目を向けた。
 何でガキが一人でこの便に乗ってるんだ、って? エコノミークラスとはいえ、いちばんお高い航空会社のフライトだもんね。
 ずっと帽子かぶってアイマスクして食事も全部無視してたから、おばさんはおれが未成年ってことに気付かなかったんだろう。まあ、フランス人の感覚からすれば、日本人なんてみんな未成年みたいな顔してるもんらしいけど。
 おれは正真正銘の未成年だ。十七歳。まだ学籍も死んでないみたいだから、襄陽《じょうよう》学園高校の三年生に進学したばっかりってことになる。
 じろじろ見てくるおばさんに、おれはニッコリ笑ってみせた。
【もうちょっと愛想よくサービスしてくれたら嬉しいんだけど~】
 そのとたん、おばさんはおれに微笑み返した。
 ちょろすぎる。おれがちょっと本気出して「号令《コマンド》」のチカラを使ったら、何でもやってくれんじゃないの? AV張りのサービスとか。
 くだらねー。
 言いなりになる女なんか、もう飽きてんだよね。元気な盛りの十七歳ったって、相手が誰でもいいわけじゃねーんだよ。
 おれはおばさんから顔を背けて、足下に押し込んだ荷物をつかんで席を立った。おばさんがおれに何か声をかけようとした。
「邪魔」
 日本語で声に出して言って、おばさんの肩を突きのける。
 あ、全然違う。と思った。
 姉貴の肩はもっと低い位置にあった。ちょっと骨がとんがってる感じだった。壊れそうだから壊したくなるような、不思議な感触だった。
 自然と足が止まってしまった。おれは自分の手を見る。顔が歪むのがわかる。
「お客さま《Monsieur》……」
 おばさんがまた何か言いかけた。
【黙ってろ。どっか行けよ】
 おれはおばさんの目をのぞき込んで命じた。くすんだ緑色の目は、左の瞳が胞珠《ほうじゅ》だ。おばさんは抵抗の術もなく、口をつぐんで後ずさる。
 頭痛がこめかみを突き抜けた。額の胞珠が痛みの発生源で、割れそうなくらいガンガンする。反射的に顔をしかめた。おれは帽子のつばを深く下ろした。
 ちょっとチカラを使うだけで凄まじく消耗するのは、ろくに眠れないせいだ。
 姉貴が血まみれになって死んでからずっと、この疲労感や頭痛や吐き気やめまいにやられている。
 うとうとするたび、姉貴の死に顔が脳裏に浮かんでくる。
 おれと同じ朱《あか》みの強い色の両眼は見開かれて、どこでもない場所を映していた。抱きしめた体は、あんなに柔らかかったのに、どんどん硬くなっていった。
 勝手に脳内リフレインするのは、死んだ場面ばっかりだ。
 姉貴の笑顔は、一生懸命に努力してようやく思い出せる。「あんたの隣ならヒールも遠慮なく履けるわ」って、いつの間にか身長が百八十センチ超えてたおれを見上げて、笑ってて。襟ぐりから胸の谷間が見えてて。
 ずっと、おれの隣、座ってるはずだったのにな。今、何でおれひとりだけここにいるんだろうね。
 愛する人を守るために男は戦うとか、そんなの、ただのおとぎ話だ。
 おれは、狭苦しい通路のゴミを蹴飛ばしながら歩いた。飛行機からブリッジへ。
 空気の匂いが変わる。空調が効いているはずなのに、生臭い湿気がまとわりついてくる。日本だな、と感じた。フランスの空港はいがらっぽく乾燥して、うっすらと硝煙の匂いがしていた。
 いい加減な態度の入国審査があって、預け荷物が流れてくるクレーンを素通りして、紙一枚を書けば誰でもパスする税関を抜ける。
 空港のゲート、どこもほんとにいい加減だった。帽子を取れとも言われなかった。パスポートの写真もろくに見られてない。
 あのさ、おれの顔、すげー目立つんだよ? 額にデッカい真っ赤な胞珠があるから。
 いや、見て見ぬふりかな。ことなかれ主義ってやつ。デカい胞珠なんてトラブルの元凶にしかならないんだし、さっさと空港から離れろって思われてんじゃない?
 到着ゲートを通過する。
 そして、おれは立ち止まった。