「姉貴、その靴、新しくない?」
「職場で餞別にもらったの。よく気付いたわね」
「だって、前のやつ、ヒールが折れて悲惨なことになってたじゃん。直そうとしたけど直んなくて」
「そう。気に入ってたのにね」
「足はほんとにもう平気?」
「このブーティだから平気。くるぶしが固定されるの」
 そっか。だから、おれに荷物を押し付けたのか。一人で何でもテキパキやっちゃう姉貴が自分で自分の荷物を持たないなんて珍しいと思ったんだ。
「まだ治ってねーんなら、無理しないでよ~。立ち仕事の美容師は、足、大事でしょ」
「はいはい、ご心配ありがとう。仕事を再開するまでには治すわよ」
 姉貴がケガしたのは、たぶんおれのせいだ。本当はおれが襲撃されるはずだったのに、たまたま姉貴が災難に遭遇してしまった。その可能性が捨て切れない。
 なぜおれが襲撃されるか。
 実家を、日本を、離れた理由と同じだ。
 朱獣珠は危ういモノだから。誘惑に満ちたモノだから。人の欲望をそそのかすモノだから。そのチカラを使ってはならないモノだから。
 入国審査の列に並びながら、姉貴は、ふと物憂げな横顔でうつむいた。
「あの子も無事に帰国できたならいいんだけど」
 銃を持った何者かと姉貴が鉢合わせたとき、姉貴をかばって戦って敵を撃退したヒーローがいた。おれは後ろ姿しか見なかったんだけど。
 細身で黒髪の男だった。異様にしなやかで素早い身のこなしが強烈に印象に残った。姉貴が言うには、銃撃を正面からかいくぐって、敵の顔面を蹴っ飛ばしてノックアウトしたらしい。
 謎のヒーローってほどでもなかった。知り合いの伝手を頼ってちょっと調べたら、在フランスの日本人旅行者情報にすんなり行き着いた。
「阿里海牙、十七歳の高校三年生、だったっけ? 国際学術交流だか短期留学だかで、たまたまあのへんにいたんでしょ。すっげー優秀っぽいけど」
「たまたまかしら? あの子もチカラを持ってたわよ。宝珠の預かり手なんじゃないかって気がした」
「まあ、並みの人間の動きじゃなかったしね~、朱獣珠が反応するのも感じたし。でもさ、姉貴、十七歳男子に対して『あの子』とか言うの、どうかと思うよ」
 おれは姉貴の弟だから、「あの子」扱いでもしゃーないってあきらめがつくけど。よそのおねえさんから言われたら、割とけっこうそれなりに気にする。
 いや、おねえさん好きな男子高校生なら「あの子」扱いに悶えて喜ぶんだろうか。姉貴、美人だし。
 いやいや、だけど、いくら美人でもね。おれの姉貴、長江琳安《ながえ・リア》って人はなかなか強烈でね。
 姉貴だからいいんであって、女としてどうかって訊かれたら、おれは絶対無理だ。
 何がどう無理って、八歳上っていう年齢差もあるし、美人でスタイルよくてオシャレで頭が切れて気が強くてバイクも乗れてフランス語も英語もそれなりで、って。こんだけ条件そろってたら怖くない?
 実際、姉貴はモテそうでモテない。後輩女子に崇拝されるけど、フツーの恋愛対象としてはなかなかモテない。弟として、何か非常にビミョーな気分である。
 にこやかな入国審査官のゲートを無事に通過して、預け荷物のスーツケースを合計四個、回収する。おれが荷物をカートに載っける間に、姉貴はタクシーを手配した。空港と提携したハイヤーって、意外とお手頃価格なんだそうだ。
 税関を抜けて、到着ゲートを通過する。
 そして、おれと姉貴は立ち止まった。
「待っていたよ、リア、理仁」
 傍から見てりゃ一発で、それがどんな場面なのか推測できただろう。
 仕立てのいいスーツを身に付けた五十歳くらいのイケメン紳士が、目尻に上品そうな笑いじわを刻んで、気さくな様子で軽く手を挙げる。
 対する相手は姉弟で、特に弟のほうの顔立ちとか骨格の感じとか、明らかにイケメン紳士と似てるわけ。
 裕福な父親が、遠くフランスの地から帰ってきた娘と息子を迎えに来ました。そんなシーンだ。
 おれの胸の上で朱獣珠がドクンと激しく鼓動した。嫌がっている。自分をあの男の前にさらしてくれるなと、おれに訴えている。
 わかってるよ。だから、落ち着け。そうでなきゃ、おれまでおまえに共鳴して苦しくなっちまうだろ。
 姉貴はサングラス越しに親父をにらんで、言い放った。
「連絡した覚え、ないんだけど?」
 親父は、よくできたスマイルを顔に貼り付けたまま、微妙に噛み合わない言葉を返した。
「無事に帰ってきてくれて安心したよ。車に乗りなさい。ひとまず家に帰ろう」
「帰らないわよ。だいたい、あなたの家はわたしたちの家じゃないから。行くわよ、理仁」
 姉貴はさっさと歩き出した。おれもカートを押して続く。
 背中に親父の声が飛んでくる。
「理仁、近いうちに学校に顔を出すだろう? 話はそのときでもいい。私は別の場所にいることもあるが、最近はできるだけ毎日、様子を見に行くことにしているのだ」
 姉貴は親父の呼びかけをガン無視しながら、ため息をついて小声で言った。
「どうして理仁はわざわざ、あんなやつが理事長をやってる高校に入ったの? とっとと離れればよかったじゃない」
 そりゃあ、おれだって後悔しまくってるよ。めっちゃ面倒くさいけど、しゃーないじゃん。
 おれは口を開かずに、思念を声みたいに編んで、直接、姉貴へと飛ばした。
【情報収集したいから。探るには、潜入すんのがいちばんかなって思って。学園の運営ってどんなもんなのか、目を凝らして見ておくんだ。そしたら、近い将来、おれがあの学園を乗っ取ってやるときに役立つでしょ】
 姉貴が目を見張った。おれはニッと笑ってみせた。
【多様なコースを持つ割にリーズナブルな学費で有名なマンモス私立校、襄陽学園。親父は裏であれこれやってて真っ黒でしょ。追い出すのは簡単だと思うんだ。追い出した後、おれがキッチリ仕切ってやったら全部丸く収まるよね~。それがおれの将来の夢】
 姉貴もニッと笑った。
「期待してるわ。戦わなきゃね」
 そーいうことだ。
 こっちに戻ってきちゃった以上は、逃げてばっかりもいられない。向き合ってくしかない。
 首から提げた鎖の先で、朱獣珠が、おれにしか聞こえない思念のつぶやきを漏らした。
 ――運命の大樹が騒いでいる。この一枝はひどく重い。
 重いの? 折れちゃいそう? バランス狂っちゃってる?
 朱獣珠が、うなずくように鼓動した。
 ――因果の天秤に、均衡を。宝珠が集うぞ。心せよ、我が預かり手よ。