煙が流れてきた。目と鼻と喉を刺された。おれは咳き込んだ。
まるでその咳が合図だったみたいに、急に、さよ子が動いた。おれのほうを振り向いた。
期待も希望も、その瞬間に打ち砕かれた。ジ・エンドだ。
さよ子は両眼がなかった。さよ子は抜け殻だった。
誰にやられたんだろうって、状況証拠はもうそろってる。余計なことしてくれやがって。おれでもそんな怒りを覚えるくらいだから、さよ子にえらく入れ込んでる総統のおっちゃんが冷静でいられるはずもない。
さよ子はおれのほうへ両手を伸ばして、一歩、一歩、ぐらつきながら歩いてくる。黒髪がゆらゆら、サラサラ揺れる。白い頬には血の涙が流れている。赤い唇から濡れた舌がのぞくのが、強烈に色っぽい。
場違いだけど、おれは見惚れた。
さよ子は、か細い声を上げて鳴いた。
「ああぁぁぁあーあぁぁあぁああー」
いい声だなと思った。
息をついたら、カラカラに渇いてる上に煙に刺激された喉から、また咳が飛び出した。止まらなくて、体を折って咳き込む。
さよ子の白い手が目の前に見えた。視線を上げると、さよ子は見えもしないんだろうに、どういうわけか正確におれの喉を両手でつかんだ。爪が皮膚を突き破る。
殺される。
払いのけようとした。おれはバランスを崩して、仰向けに倒れた。
華奢な女の子っつっても、全身の力を乗せて首絞めに掛かったら、すっげー重いし苦しいのな。
爪が食い込んでくる。このままじゃ、窒息するより先に血管をやられるだろう。
あー、人間って、こんな簡単に死ねるんだ。
意識が真っ白くなっていく。クエストの途中だったのにな。ゲームオーバー寸前だよ。リセットできねーしな。ゲームマスターに降参って伝えとくほうがいいかな。
【おっちゃん、聞こえる? そっち届くように話してるつもりなんだけど、届いてなかったらゴメンで、とりあえず話すけど。さよ子ちゃん、抜け殻だ。動く死体状態。リビングデッド。これ、おっちゃん的にはアウトだよね? 少なくとも、おれ的にアウトだし】
地面が揺れた、と思う。それも、けっこう激しく。
震動のせいだろう、さよ子の体がぺしゃんと、おれの上に落ちてくる。首に掛かっていた力が消えて、息が喉に通る。おれはまた咳き込んだ。
意識が少しハッキリした。
【ねえ、おっちゃん、聞こえたんでしょ? さよ子ちゃん、もうおっちゃんのことわかんないよ。両目ともなくなってる。心もどっか消えちゃったよ。これって、ジ・エンドだよね?】
答えが届いた。
猛烈な音と風と光が激流になって押し寄せてきた。
実際には何も聞こえなくて、空気も動かなくて、蛍光灯が次々と消えて闇が迫った。でも、押し寄せてきたそれは確かに、音と風と光の激流のように感じられた。
途方もないエネルギー量の思念だ。
地面が揺れた。天井が唸った。壁にひびが走った。今度は凄まじい音がした。音はどんどん大きくなる。
さよ子が悲鳴を上げた。本能的に恐怖を感じたんだろう。
おれはさよ子を抱きしめた。柔らかくて温かい体は確かに生きているのに、呼んでも応答はないんだ。
さよ子はおれの首筋に噛み付いた。激痛。肉を噛み千切る音が耳元で聞こえた。
地面が波打った。太い柱があっさりと折れて、海牙の姿がコンクリートに呑まれて消えた。蛍光灯が弾けて燃えた。
血の匂いがした。さよ子がおれの首に口を寄せた。熱い息が掛かった。痛みが脈を打っている。
ごうっ、と、ものすごい音があたりいっぱいに満ちた。
怖かった。おれは叫んだ。喉が焼けるように痛んだ。
思念の暴流がおれをつかんで取り込んでいく。イヤだ。怖い。おれはおれのままでいたい。食われたくない。
額が割れるように痛い。食われた首が痛い。足が地面のひび割れに噛み付かれて痛い。痛い痛い痛い、全身がバラバラになりそうに痛い。恐怖が体いっぱいに膨れ上がって、はち切れそうで痛い。
おれは叫んだ。音も思念も、きっとどこにも届かなかった。おれの声よりもっとデカい音と思念がおれを取り巻いてるから、おれは全部呑み込まれた。
意識が薄れる。
何ていうか、ふわふわしていた。
死へと近付いていく。その感覚は、勝手に想像していたのよりもずっとふわふわと柔らかかった。
轟音が鳴り続けているのはわかった。なのに、静かだった。ふわふわだった。
ひとりだなあ、と思った。いつの間にかさよ子もいなくなっていた。
それから、本当に静かになった。
真っ暗になった。おれはしばらく眠った。
どれくらい眠ったんだろう?
ぽつ、ぽつ。
何でこんなかすかな刺激に気付いたんだろう?
ぽつ、ぽつ。
雨だなって、何となくわかった。
おれは目を開けた。まぶたがまだあった。ものを映す目がまだあった。目に映るものを認識する脳がまだあった。体も、たぶんまだあった。
コンクリートとアスファルトの間で、もうすぐぺしゃんこになる体は、何の感覚もなかった。
見上げる空は、赤くて黒くてひび割れていて、雨が降っていた。寒そうだな、という気がした。
なるほど。地球は割れずに形を保ってるみたいだ。町は、見る影もないけど。
もしかして、おれがこの町で最後の人間かもね。何でおれなんだよ。無様じゃねーかよ。
何かさ、ほんと意味わかんない。おれ、何のために生まれて何のために生きて何のために死ぬの? 謎だらけのままじゃん? 笑っちゃうよ。こんな人生、最低だろ。
ああ、もう。
何もかもがどうでもよすぎて、今、すっげー切実な願いを思い付いてしまった。全身全霊を懸けて願っちゃっていいですか?
いいよね。だって、しょーもねぇよ、この世界。失敗作だって。
【終わっちまえよ。滅んじまえよ。今すぐ消えてなくなれ。バイバイ】
この世界じゃない世界がどっかにあるんだろ? そっちには、もうちょいマシな人生送ってるおれがいるんだろ?
代わってくれよとか言う気力、もう残ってないし。でも、願って呪って命じる気力なら、ここにあるんだよね。
額が熱い。ぶっ壊れそうに熱くて痛い。
最期に想ったのは、姉貴のこと。姉貴が幸せに生きてる世界が、もしもどこかにあるのなら。おれ、その世界を応援するよ。この世界を呪うのと同じくらいの死力を尽くして、応援してやる。
だからバイバイ、この世界。
【何もかも道連れにしてやる。来いよ、全部。終われ】
どーせ生まれるんなら。
何かのために生きたかった。
まるでその咳が合図だったみたいに、急に、さよ子が動いた。おれのほうを振り向いた。
期待も希望も、その瞬間に打ち砕かれた。ジ・エンドだ。
さよ子は両眼がなかった。さよ子は抜け殻だった。
誰にやられたんだろうって、状況証拠はもうそろってる。余計なことしてくれやがって。おれでもそんな怒りを覚えるくらいだから、さよ子にえらく入れ込んでる総統のおっちゃんが冷静でいられるはずもない。
さよ子はおれのほうへ両手を伸ばして、一歩、一歩、ぐらつきながら歩いてくる。黒髪がゆらゆら、サラサラ揺れる。白い頬には血の涙が流れている。赤い唇から濡れた舌がのぞくのが、強烈に色っぽい。
場違いだけど、おれは見惚れた。
さよ子は、か細い声を上げて鳴いた。
「ああぁぁぁあーあぁぁあぁああー」
いい声だなと思った。
息をついたら、カラカラに渇いてる上に煙に刺激された喉から、また咳が飛び出した。止まらなくて、体を折って咳き込む。
さよ子の白い手が目の前に見えた。視線を上げると、さよ子は見えもしないんだろうに、どういうわけか正確におれの喉を両手でつかんだ。爪が皮膚を突き破る。
殺される。
払いのけようとした。おれはバランスを崩して、仰向けに倒れた。
華奢な女の子っつっても、全身の力を乗せて首絞めに掛かったら、すっげー重いし苦しいのな。
爪が食い込んでくる。このままじゃ、窒息するより先に血管をやられるだろう。
あー、人間って、こんな簡単に死ねるんだ。
意識が真っ白くなっていく。クエストの途中だったのにな。ゲームオーバー寸前だよ。リセットできねーしな。ゲームマスターに降参って伝えとくほうがいいかな。
【おっちゃん、聞こえる? そっち届くように話してるつもりなんだけど、届いてなかったらゴメンで、とりあえず話すけど。さよ子ちゃん、抜け殻だ。動く死体状態。リビングデッド。これ、おっちゃん的にはアウトだよね? 少なくとも、おれ的にアウトだし】
地面が揺れた、と思う。それも、けっこう激しく。
震動のせいだろう、さよ子の体がぺしゃんと、おれの上に落ちてくる。首に掛かっていた力が消えて、息が喉に通る。おれはまた咳き込んだ。
意識が少しハッキリした。
【ねえ、おっちゃん、聞こえたんでしょ? さよ子ちゃん、もうおっちゃんのことわかんないよ。両目ともなくなってる。心もどっか消えちゃったよ。これって、ジ・エンドだよね?】
答えが届いた。
猛烈な音と風と光が激流になって押し寄せてきた。
実際には何も聞こえなくて、空気も動かなくて、蛍光灯が次々と消えて闇が迫った。でも、押し寄せてきたそれは確かに、音と風と光の激流のように感じられた。
途方もないエネルギー量の思念だ。
地面が揺れた。天井が唸った。壁にひびが走った。今度は凄まじい音がした。音はどんどん大きくなる。
さよ子が悲鳴を上げた。本能的に恐怖を感じたんだろう。
おれはさよ子を抱きしめた。柔らかくて温かい体は確かに生きているのに、呼んでも応答はないんだ。
さよ子はおれの首筋に噛み付いた。激痛。肉を噛み千切る音が耳元で聞こえた。
地面が波打った。太い柱があっさりと折れて、海牙の姿がコンクリートに呑まれて消えた。蛍光灯が弾けて燃えた。
血の匂いがした。さよ子がおれの首に口を寄せた。熱い息が掛かった。痛みが脈を打っている。
ごうっ、と、ものすごい音があたりいっぱいに満ちた。
怖かった。おれは叫んだ。喉が焼けるように痛んだ。
思念の暴流がおれをつかんで取り込んでいく。イヤだ。怖い。おれはおれのままでいたい。食われたくない。
額が割れるように痛い。食われた首が痛い。足が地面のひび割れに噛み付かれて痛い。痛い痛い痛い、全身がバラバラになりそうに痛い。恐怖が体いっぱいに膨れ上がって、はち切れそうで痛い。
おれは叫んだ。音も思念も、きっとどこにも届かなかった。おれの声よりもっとデカい音と思念がおれを取り巻いてるから、おれは全部呑み込まれた。
意識が薄れる。
何ていうか、ふわふわしていた。
死へと近付いていく。その感覚は、勝手に想像していたのよりもずっとふわふわと柔らかかった。
轟音が鳴り続けているのはわかった。なのに、静かだった。ふわふわだった。
ひとりだなあ、と思った。いつの間にかさよ子もいなくなっていた。
それから、本当に静かになった。
真っ暗になった。おれはしばらく眠った。
どれくらい眠ったんだろう?
ぽつ、ぽつ。
何でこんなかすかな刺激に気付いたんだろう?
ぽつ、ぽつ。
雨だなって、何となくわかった。
おれは目を開けた。まぶたがまだあった。ものを映す目がまだあった。目に映るものを認識する脳がまだあった。体も、たぶんまだあった。
コンクリートとアスファルトの間で、もうすぐぺしゃんこになる体は、何の感覚もなかった。
見上げる空は、赤くて黒くてひび割れていて、雨が降っていた。寒そうだな、という気がした。
なるほど。地球は割れずに形を保ってるみたいだ。町は、見る影もないけど。
もしかして、おれがこの町で最後の人間かもね。何でおれなんだよ。無様じゃねーかよ。
何かさ、ほんと意味わかんない。おれ、何のために生まれて何のために生きて何のために死ぬの? 謎だらけのままじゃん? 笑っちゃうよ。こんな人生、最低だろ。
ああ、もう。
何もかもがどうでもよすぎて、今、すっげー切実な願いを思い付いてしまった。全身全霊を懸けて願っちゃっていいですか?
いいよね。だって、しょーもねぇよ、この世界。失敗作だって。
【終わっちまえよ。滅んじまえよ。今すぐ消えてなくなれ。バイバイ】
この世界じゃない世界がどっかにあるんだろ? そっちには、もうちょいマシな人生送ってるおれがいるんだろ?
代わってくれよとか言う気力、もう残ってないし。でも、願って呪って命じる気力なら、ここにあるんだよね。
額が熱い。ぶっ壊れそうに熱くて痛い。
最期に想ったのは、姉貴のこと。姉貴が幸せに生きてる世界が、もしもどこかにあるのなら。おれ、その世界を応援するよ。この世界を呪うのと同じくらいの死力を尽くして、応援してやる。
だからバイバイ、この世界。
【何もかも道連れにしてやる。来いよ、全部。終われ】
どーせ生まれるんなら。
何かのために生きたかった。