うすぼんやりとした空間を歩いていく。風は感じられない。
 通路はときどき膨らんで、小部屋の形になる。右にも左にも別の通路がつながっている。おれは何も考えず、法則もなく、適当に選んだほうへと歩いた。
 いきなり、足音が聞こえた。そして声が聞こえた。
「あっ、やっぱり! 長江先輩! わぁっ、生きてたんですね!」
 女の子の肉声だ。鈴蘭だった。横合いの通路から駆けてくる。
 反射的に笑ってみせたおれの頬は、その形のまま引きつった。鈴蘭が血まみれだったせいだ。制服のブレザーはボタンが取れて、前がはだけられている。白いはずのブラウスは赤黒く染まっていた。
 血は、鈴蘭が流したものではなかった。鈴蘭が至極大事そうに胸に抱いた生首の血だ。
「鈴蘭ちゃんこそ、生きてたんだ」
「はい。ラッキーですよね」
 そうかな? あっさり死んじゃった煥のほうがラッキーだったかもしれないよ。
「おれさ、さよ子ちゃんを探せっていうクエストの最中なんだけど、鈴蘭ちゃん、ヒント持ってないよね?」
「クエスト? さよ子、このあたりにいるんですか?」
「わかんない。でも、探して連れてかないと、ジ・エンドなんだって」
「何が終わるんですか?」
「世界」
「え?」
 血の匂いがした。腐臭はまだしない。煥《あきら》の生首はひどくキレイで、つい目を惹き付けられる。
「鈴蘭ちゃん、傷を治すチカラがあるよね? その首、つなげてやれないの?」
「生き返らせるのは無理ですよ。そんなことできる人がいたら、神さまです」
「好きな人が死んじゃって、悲しくないの?」
「悲しいですよ。煥先輩の歌をもう聴けないなんて。でもね、これはこれでいいかもって思うんです」
「いいって、何が?」
 煥の少し長めの銀髪は、鈴蘭が撫で続けるからサラサラだった。髪にも肌にも、血や泥の汚れがない。鈴蘭が拭ってやったんだろう。
 生首のくせに、表情が妙に生き生きしている。ハッと目を見張ろうとする途中みたいな、どこか無防備な表情。
 煥って、つねに眉間にしわを寄せてそっぽを向いてるようなやつだったから、毒気や棘《とげ》のない表情すると全然違うんだな、って感じだ。頬とか口元とか実はあどけないんだな、って。まつげがめっちゃ長いんだな、って。
 鈴蘭がくすくすと笑った。血で濡れた胸が揺れた。
「見惚れちゃいますよね。キレイですもんね。でも、あげませんよ。わたしのものですから。ちょっと想像できなかった形だけど、手に入っちゃった。嬉しいなあ。早く外に出て、キレイなまま保存できる方法を探さなきゃ」
 鈴蘭は煥の生首を持ち替えて、光のない目と見つめ合うと、額の白い胞珠と唇にキスをした。少し開いたままの煥の唇に、鈴蘭の舌が這う。生首がもう硬直しているのが見て取れた。
 すげーな。おれにはそんな発想、なかったよ。空っぽになって腐ってくだけの死体なんて、もう姉貴じゃないと思った。
 おれは、鈴蘭が来たのとは別の方向を指差した。
「とにかく、どっかから外に出ようと思ってんだけど、一緒に来る?」
「行きます。たぶんなんですけど、この中、ほかにも誰かいるんですよね。不気味な声が聞こえたりしてるので」
「そーなんだ。まあ、このダンジョン、けっこう広範囲に広がってるし、巻き込まれた人がいてもおかしくはないよね。あの海牙ってやつも、たぶんどっかにいるし」
「はい。だから、一人より二人のほうが安心だと思って」
 だよね。おれもそう思うよ。二人のほうが、生きて出られる確率が上がるよね。
 おれが前、鈴蘭が後ろになって歩き出す。相変わらず、向かう先はいい加減。でも、たぶんこれでいい。おれの勘は、おれの頭脳より役に立つ。
 鈴蘭は、話し出したら止まらないらしかった。煥のこと、煥のこと、煥のこと。どれだけ好きなのか。何で好きになったのか。どこが好きなのか。
 煥と交わした会話は全部覚えているらしい。煥が歌った唄も全部データを持っているという。過去の思い出や記録は有限だけど、空想や妄想は無限で自由だから最高なんだとか。
「追い掛けて追い掛けて追い掛けてやっと得られるものって、ほんのちょっとだったんです。悔しいし苦しいしどうにもならないし、大変だったんですけど、今はもう手に入っちゃったんですよね。夢みたい。これからはわたしが独占できるんです」
 独占ってさ、それが恋愛の究極形なんだろうか。相手のこと、もう完璧に思いどおりにできる。
 魅力的なシチュエーションかもしれないね。それはおれにも理解できるよ。自分じゃない人間って、思いどおりに動かせないのがデフォルトだし。
 ふと、風があることに気が付いた。おれは思わず足を止めた。
「長江先輩? どうしたんですか?」
「このへんからどこか別の場所に行けるかもしれない。風が吹いてる」
「あっ、ほんとですね」
 弾んだ鈴蘭の声に、その瞬間、別の声が重なった。いくつもの呻き声だ。意外に近い。
「何だ?」
 呻き声は反響している。四方に道が通じた小部屋の中では、呻き声がどこから聞こえてくるのか特定できない。
 こっちに向かってきている。そう感じる。
 鈴蘭が動揺している。悲鳴みたいな甲高い声で、意味をなさない言葉を口走っている。
 姿が見えた。人の姿が、いくつか。
 直立して二足歩行するって、実は難しいことらしい。そいつらは、ぐらぐら激しく揺らめきながら近寄ってくる。這いずってるやつもいる。
「あー、やっぱ、あれか。抜け殻か」
 鈴蘭が大きな悲鳴を上げた。その声に呼応するように、近寄ってくる抜け殻たちが大きな呻き声を上げた。