「だから、言ってるじゃないか。その程度で開くわけがない。ボクが黄帝珠のチカラで以てさんざん叩いても、壊れなかったんだ」
 ザワリと、髪が逆立つように感じた。瞬間的に感情が沸騰した。
 ぼくは正面から祥之助をにらんだ。
「彼女に触れようとしたんですか。その小汚い手で」
「おまえはこの女の恋人でも何でもないだろう? 単なる片想い。おまえはこの女に、ボクより先に触れたいと望んでいる。ただそれだけだ」
 ぼくは、暴れたくて震えるこぶしを固く握りしめた。
「ゲスな勘繰りをしたければ、勝手にどうぞ。これ以上、きみにかまってやるつもりもない。あの時計が示すのは、この迷宮の存続時間か、ぼくたちの滞在可能時間なのか。いずれにせよ、もう時間があまりないはずだ」
 黄帝珠が応えた。
【異物の滞在可能時間、および、宿主のココロの安定時間。それを過ぎれば、両者ともに、精神崩壊へと向かう】
「そう、あと少しでタイムリミットだったね。どうするつもりなのかな、阿里海牙センパイ? 愛の言葉でも掛けてみるか? 理系では成績トップでも、ロマンスを語るための文才がどの程度なのか、見ものだな」
 なるほど、文天堂祥之助は天才だ。ぼくの感情をこれほど見事に逆撫でしてくれるとは、何たる才能の持ち主なんだろう。
「繰り返しますが、きみにかまうつもりも時間もないんですよ」
「この迷宮を現出させたチカラの持ち主たるボクらとの会話の中に、ゲームクリアのヒントがあるかもしれないぞ。ないかもしれないが」
「……ロマンスを語る文才は持ち合わせていませんね。大げさな表現もクサい比喩も嫌いです。言葉は、正確さを期することだけ心掛けています」
 だから今も、正確な言葉を選んで使うことにしようか。
 ぼくは息を深く吸って、言葉とともに吐き出した。
「【黙ってろ、ゲス野郎! その汚い口、しばらく閉ざしてろ!】」
 祥之助が目を剥いた。口は動かない。頬の筋肉がひくつく。
 号令《コマンド》だ。チカラの込め方がわかった。
【離れろ】
 祥之助が、見えない腕に引きずられるように、一歩二歩と後ずさる。
 息を止めろとでも命じたら、どうなるんだろう? チラリとそう思った瞬間、祥之助の頭上の黄帝珠が声を轟かせた。
【こざかしい! この程度のチカラで、我らを制御したつもりかッ!】
 その声は、衝撃波だった。
 黄帝珠を中心として噴き出した圧力に、ぼくはよろける。ビリビリと部屋全体が揺れた。ただよう淡い光が、いくつか割れて砕けた。
「宝珠が、単独でチカラを使った?」
【驚いておるのか、玄武よ。無理もない。おぬしの玄獣珠は無能に沈黙しておるからな。しかし、我、黄帝珠は違う。物理的な制約を受けぬココロの世界では、思うままにチカラを使えるのだ】
 哄笑が再び衝撃波を生んだ。
 ピシッと、ひびの入る音がした。天井だ。
 祥之助が懐中時計を掲げた。黄金色の両眼が爛々《らんらん》と光っている。ニタリと笑う口が開いた。声が回復している。
「体感時間にして、残り一分か二分ってところかな? この女、リミットまでの時間は長かったよ。もっとさっさと壊れ始める人間のほうが多い。さて、時間が来たら、ボクらは外に出る。ほら、無駄話をしているうちに、もうすぐその時間だよ、阿里海牙センパイ?」
 近寄ってきた祥之助がぼくに懐中時計を突き付ける。暗転した文字盤に、ごく細い一条の黄金色。
 ぼくは懐中時計を受け取らず、祥之助の胸倉をつかんで持ち上げた。怒鳴り付けたいのを押し殺して、低く尋ねる。
「文字盤をもとに戻す方法は?」
「は、離せ、無礼なっ」
「ぼくの質問に答えろ。文字盤をもとに戻す方法はあるのか、ないのか?」
 祥之助の瞳孔が、黄金色の異様な光の奥で、広がったり縮んだりした。
「あるわけがないだろう! ココロの滞在可能時間は、宿主次第だ。ボクにどうこうできるわけが……うぎゃあ」
 胸倉をつかむ手を、軽く押し出しながら離した。直感で計測した力点は正確で、効率よく力が作用して、祥之助が吹っ飛ぶ。
 投げ飛ばした拍子に、懐中時計が床に落ちていた。絶望の瞬間が目の前にある。
【少しだけ……もう少しだけ時間をください、リアさん】
 黄帝珠が、ざらざらと不快な声を轟かせた。
【絶望するか、玄武? 出会ってわずか数日の他人のココロの中で、むなしく滅ぶことを。それとも、歓喜するか? 美女のために死するは、男の愚かなる本望であろう。いや、怨みに溺れるか? 玄獣珠のチカラを以て怨みながら死ぬとは、これは芳しい】
 さびたノコギリの刃を皮膚に押し当てられているかのように、黄帝珠の声が触れる耳や頬はピシピシと痛む。
 また、部屋のどこかで、ひびが走る音がした。
【のう、玄武よ、おぬしは……】
「【黙れ、くたばりぞこない! もっと粉々に砕かれないと、反省の『は』の字も学習できないのか!】」
 口から飛び出した怒声は、半分はぼく自身のものだ。もう半分は、玄獣珠の意志と記憶だった。
 できるんだと思う。玄獣珠も、本当は、みずからチカラを振るえる。それをしないのは、禁忌だと固く理解しているからだ。因果の天秤の均衡を守れと、四獣珠の本能には刻み込まれているから。
「世の中のエネルギーはすべて均衡の下に成立している。ところが、禁忌を守れず、均衡を崩す愚かな宝珠がここにある。運命の一枝も、揺さぶりを受けるわけですね」
【こしゃくな口を利くでない、玄武!】
「あいにくと、ぼくは絶望していないし、死に歓喜を覚えることもない。ましてや、何かを怨むつもりもありません。怨むなんて面倒なことをするより、腹が立ったその瞬間に正面から叩きつぶします」
【生意気な愚か者が! あくまで我が意に染まぬと申すか! ならば、今すぐ滅べ!】
 衝撃波が襲ってくる。
 ぼくはいい。耐えてみせる。
 でも。
【リアさんを傷付けるな!】
 叫んだ瞬間、ぼくの目の前に巨大な影が立ちふさがった。影は黒い翼を広げて、ぼくとともに、リアさんの核をかばう。
「イヌワシ!」
 ぼくよりも大きな、写実的な姿をしたイヌワシが目の前にいた。蓋の上にいたはずのぬいぐるみのイヌワシは姿を消している。
 つまり、あれが、これか。
 一瞬、めまいがした。物理法則に反しすぎている。ココロの中なんだから、何でもありかもしれないけれど。
 いや、今はどうでもいい。問題は祥之助と黄帝珠だ。
 祥之助は頭上の黄帝珠に触れた。
「もういいよ、黄帝珠。こいつらはどうせ死ぬんだ。放っておいて、早くボクらは脱出しよう」
【時間か。仕方あるまい】
 ふわりと、祥之助の体が宙に浮き上がった。ぎらぎらする黄帝珠が、凄まじいチカラを放出している。祥之助がぼくを見下ろしながら、天井を指差した。
「ボクたちは外に出るよ。まあ、一応、しばらくは待っていてやる。少々時間をオーバーしても、まともでいられるココロもあるしね。せいぜい頑張ってくれ」
【待て!】
「無駄無駄。黄帝珠が本気でチカラを使ってるんだよ。おまえの不完全な声が効くと思ってるのか?」
 仰々しい装飾の椅子が浮き上がって、そのまま天井に吸い込まれた。ここが魂珠の中心で、最下層だ。外へと脱出するには、上向きに外壁を抜けていくイメージが必要なのだろうか。
 祥之助と黄帝珠が、まもなく漆黒の天井に達する。