「違いますよね」
 つぶやいたのが自分の声だと、最初はわからなかった。リアさんの怪訝《けげん》そうな目が、ごく近いところからぼくを見つめている。
「リアさん、違いますよね」
 ぼくが口を動かすと同時に声が聞こえて、それが自分の声だと知って、ぼくは自分の気持ちを悟った。せめぎ合う感情の中で、より強いのが何なのかを理解した。
「こんな茶番、本心じゃないんでしょう? 今までずっとそうやってきたんですか? そうやって自分をごまかして、すり減らしてきたんですか? こんなの本心じゃないって言ってくださいよ。ねえ」
 言葉にした途端、悲しくて、鼻の奥がツンとした。憧れの人が知らない誰かに触れられたのだと思うと、つらい。腹立たしくて、悔しくて。
 それが大人の遊びだったとしても、本気の恋じゃなかったとしても、大事なものをけがされた気がして、ぼくの胸に身勝手な悲しみが湧いてくる。
「媚びを売るふりで本心を隠して、そのキレイな体を安い遊びに使って、寂しさや悲しみをまぎらわす手段だったとしても、もうやめてください。似合いません。それに、ぼくを……ぼくまでも、そんな嘘に付き合わせないでください」
 リアさんの顔から、笑みが消える。怯《おび》えるように見張られた目に、ぼくが映り込んでいる。
 こんなに距離が近い。抱き寄せることも押し倒すことも簡単だ。
 ぼくは衝動を殺している。必死で殺している。流されたくない。今だけは、絶対に、流されてはいけない。
「ココロの奥まで見られたくないって、リアさんのその気持ちもわかります。わかるからこそ、今だけ見せてほしい。必ず大切にしますから、ぼくだけ許してください」
 夜のドレスをまとったリアさんが男の目を美しい体へ向けさせるのは、きっと隠れ蓑《みの》だ。その本心から相手の目をそらすための武器なんだと思う。
「過去に何度、そんなふうにごまかして、誘惑してきたのか。人数や回数なんて、ぼくにはどうでもいいんです」
 少し嘘だ。口にした瞬間、自分の言葉が胸に突き刺さって痛んだ。でも、その痛みは、はるかに小さい。ぼくのいちばん強い望みを黙殺される痛みより、ずっと小さい。
「ぼくを惑わさないでください。きちんと、あなたと向き合わせてください。未熟なんです、ぼくは。一つひとつ組み上げていかないと、理解できないんです。教えてください。一つひとつ順を追って、ごまかさずに。あなたの力になるための方法を、ぼくに教えてください」
【だから、その姿で、ぼくに迫らないで。あなたをメチャクチャに壊してしまいたくなる。そうだ、メチャクチャにしたいのも本心。あなたの過去が悔しくて、全部、上書きしてしまいたい。塗り替えてしまいたい。あなたをぼくだけのものにしたい】
 抑え切れない浅はかな感情が、音のない声になってあふれ出す。チカラの使い方がわからないぼくの声は、実現性を持たない。ただ、ぼくの心を正直に映し出す鏡のようなもの。ぼくの理性は、ギリギリのところにしがみ付いている。
 リアさんが、不意に笑った。
「かわいい」
「え?」
「でも、生意気よ」
「す、すみません」
「あやまちを繰り返せるほど、わたしはタフじゃないの。むなしくなるだけだった。寂しさもいらだちも、少しも埋まらなかった」
 リアさんがぼくの胸に額を寄せた。
【聞かれてしまう……鼓動を】
「生ぬるい親切も同情も、いらない。下心で近付くなら、そうと言われるほうがマシ。わたしは、嘘をつかれるのが嫌いなの。自分が嘘つきなくせにね」
 嘘と強がりは、同じではないと思う。リアさんは強がっているだけだ。
 顔を伏せたまま、リアさんがクスクスと笑った。
「きみ、気が利かないわね。こういうときは、肩くらい抱いてよ」
「へっ?」
 面食らった次の瞬間、ピンク色の濃い霧に包まれた。思わず目を閉じるほど、濃密な香水の匂いがした。
 突風が吹いて、霧と香水が飛ばされる。目を開けると、ぼくは階段に一人で立ち尽くしていた。
「幻?」
 リアさんも、脱ぎ捨てられたコートもドレスも、ない。ここは踊り場ですらない。
 鼓動はまだ速い。体の興奮は収まっていない。
 ぼくは階段にしゃがみ込んで顔を覆った。なまなましすぎた。今さらになって、かなりヤバい状態だったと気付く。
「むちゃくちゃだ、あんなの……」
 難易度の高すぎる試験、クリア条件の厳しすぎるステージ。
 流されて溺れなかったのは、ほとんど奇跡だ。ちょっとでも違うスイッチが入ってしまったら、完全にアウトだった。
 漆黒の扉のそばにいたイヌワシが、ぼくのところまで戻ってきた。翼で繰り返し頭を打たれる。
「ごめんなさい、わかってますって」
 だけど、あとちょっと待って。熱すぎる顔を上げられない。誰が見ているわけでもないけど、手のひらをどけられない。
 リアさんには全部感知されているんだろうか。やましいところだらけだ。
 さっき、どさくさまぎれに何て言った?
【あなたをぼくだけのものにしたい】
 本音だった。リアさんに対して、その気持ちが百パーセントなのかどうかはわからない。でも、少なくとも、ぼくにそういう一面もあるのは確かだ。
 恥ずかしくて、苦しくて、くすぐったくて、痛い。ざわついて仕方がない場所は、頭なのか胸なのか、もっと体の奥なのか。どこを押さえても収まらなくて、どこかが熱く騒ぎ続けている。
 今、どうすればいいのか、わからない。答えが出なくてじれったい。叫び出したいくらいに。