ぼくたちとリアさんとの距離が縮まらない。途中からぼくたちは小走りになっていた。それでも追い付けない。同じ空間を、ぐるぐると回っている。
「何がしたいんだよ、姉貴?」
 髪を掻きむしった理仁くんに、煥くんが問い掛けた。
「リアさんって、友達いるか?」
「姉貴の友達? ん~、仕事仲間とか、連絡取ってる同級生とか? SNSで友達にする範囲の人はいるよ、もちろん。でも、あっきーが言う友達って、もっとガチの意味?」
 煥くんがうなずく。理仁くんはかぶりを振った。
「少なくとも、おれは知らねえ」
「彼氏は?」
「いたことなくはないかもしれない気がする」
「……今は、いないんだな?」
「彼氏なんて紹介してもらったことはないね~。恋バナも聞いたことないし、噂も知らない。フツーに考えて、過去にはいたんじゃないかと思うけど。で、何で急に? 彼氏いますかって、海ちゃんが訊くならともかく」
【一言、余計です】
 煥くんはかすかに笑って、すぐに真剣な目をした。
「さっき、リアさんは兄貴に似てると思った。兄貴の彼女にも似てると思った。でも、オレにも似てるとこがある気がする。オレと同じで、自分の見せ方がわからねぇんじゃないかって。だから、リアさん自身、この廊下で迷っちまってんじゃないかって」
 角を曲がったら、リアさんが立ち止まっていた。
 そこは行き止まりだった。突き当たりの壁に、大きな油絵が掛けられている。白とグレーの濃淡で表された花束の絵だ。
 ぼくたちも立ち止まった。
 しなやかに澄んでまっすぐな声で、煥くんは淡々と語った。
「オレには歌があって、バンドがある。オレが詞を書くんだ。言葉、あんまり知らなくてさ、書くたびに怖いんだぜ。兄貴たちが受け入れてくれなかったら、って。でも、いつも大丈夫なんだ。オレは歌うことで、自分を見せられる。それが許されてる。奇跡みたいだ」
 おそらく多くの人が、煥くんと同じだ。自分を見せることに戸惑う。自分を見せていい範囲を測れずにいる。あるいは、自分を見せる方法を知らない。
 近付くにつれて、リアさんの表情がハッキリわかってきた。怒っている。高ぶる感情のあまり、涙を流している。
「オレにとっての歌が、今苦しんでる人にもあればいいのに。オレにとっての兄貴やバンドみたいな存在に、殻に閉じこもってる人も気付けたらいいのに。他人のことは、よく見えちまうんだよな。自分のことは全然わかんねぇくせにさ」
 煥くんは静かにそう言って、ぼくと理仁くんを振り向いた。
 ぼくはリアさんを見つめた。
【正直な顔は初めてだ】
 美しい、と思った。
【ギリギリの表情をしたあなたはキレイだ。強がりも愛想笑いもいらない】
 あふれ出る声を、ぼくは敢えて止めない。
 心で感じるままに言葉をアウトプットするなんて、普段のぼくにはできない。そんな能力を持たないし、見栄やポーズが邪魔をする。
 でも今は、この上なく率直な声が、ぼくにある。
【あなたはいっぱいいっぱいな状態で、そのくせ笑ったふりをしていた。怒りを率直に表すことは、苦しいでしょう? でも、その表情こそ美しいと思った。もっとちゃんと見せてほしい】
 思い上がりを許してください。
 煥くんの言うとおりだ。自分の見せ方を知って、自分を見せてしまうと、怖い。リアさんの前に見せる自分が、リアさんに受け入れられるのか。
 ぼくは、ずるくて弱い。
【絶望、強迫観念、刷り込みにとらわれたのが、あなたじゃなくてよかった。ごめんなさい。でも、あなたが生き生きと怒りを燃やせる人で、よかった。あなたが生き続けることを選ぶ人で、よかった。傷だらけでも、生きていてくれてよかった】
 突然、リアさんがぼくに近付いてきて、こぶしを固めて振り上げた。
 避けることはできた。その手首をつかむこともできた。
 でも、ぼくは。
「…………ッ!」
 ぼくの胸を叩くリアさんのこぶしを、ぼくはそのまま受け止めた。息が詰まる。
【傷付けたければ、そうしてください。ぼくでよければ、怒りでも悔しさでも、ぶつけてください】
 自分の見せ方が不器用なあなたと同じで、ぼくは、あなたの受け入れ方をよくわからない。だから、できることを全部したいと思う。
【今のぼくにできることは本質的な解決にはつながらない。無力で、ごめんなさい】
 あなたは独りじゃないんだと、どうすれば伝わるだろう?
 唐突に背後から轟音が聞こえた。振り返る。
 ゴウッと音をたてて、水が押し寄せてくる。廊下が、まるで水道管だ。膨大な量の水が迫ってくる。
「下がれ!」
 煥くんが水の来るほうへ飛び出した。片膝を突いて、床に両方の手のひらを触れる。手のひらが白く光り出す。
 白い光は障壁《ガード》だ。面を為す光が、床から天井へと垂直に展開する。
「四角は難しい」
 煥くんがつぶやく。以前に見た障壁《ガード》は、三次元構造に対応しやすい正六角形だった。それが原形なんだろう。
 床から天井まで、壁との隙間もなく、ぴっちりと障壁《ガード》が廊下をふさいだ。次の瞬間、水が、白く発光する面に到達する。
 水は障壁《ガード》に触れる前に、シュワシュワと蒸発する。いや、分子分解されているんだろうか。理仁くんが、白い光越しの水に目を凝らした。
「水が98%、あとは、生体由来のタンパク質とリン酸とか。弱アルカリ性。たぶん、その水は涙だ」
 頭に軽い衝撃を感じた。イヌワシが翼で打って、ぼくの注意を引いたらしい。彼は白い花束の絵へと飛び、その左辺の一点を押した。
 絵が、向こう側へと開いた。
「隠し扉!」
 煥くんが障壁《ガード》を維持して正面を向いたまま叫んだ。
「先に行け!」
「あっきーは?」
「リアさんが一緒に向こうに行けるようなら、オレも行く」
 ぼくは、白いパンツスーツ姿のリアさんを見た。リアさんはかぶりを振った。
 後ろ姿の煥くんは、状況を察したらしい。
「この病院の空間から、このリアさんは出られねぇんだろ? ほっとけねえ。こんな量の涙に呑まれて、平気なわけがない」
 理仁くんが唇を噛んだ。絞り出すような声を震わせた。
「イケメンすぎるってば、あっきー。海ちゃんもだよ。おれだけじゃ全然ダメじゃん。おれ、姉貴にそんな優しい言葉、かけてやったことないよ。姉貴がすぐ隣できつそうにしてんの知ってても、どうすりゃいいかわかんねーもん」
 リアさんが少女のように顔を覆って泣き出した。泣き声がぼくの胸を刺す。理仁くんがリアさんの頭を撫でた。
「姉貴、ゴメン」
 悔しい、と聞こえてきた。リアさんの声だ。
 ――許しておけない現実を、変えられない。チカラがない。
 ――そんな自分が悔しい。
 ――誰よりも何よりも激しい怒りの対象は、わたし自身。
 怒りの涙に泣き崩れるリアさんを前に、ぼくは為す術がない。
 煥くんが再び言った。
「先に行けって。しばらくはこうしていられる。力尽きるまで、オレはここで防ぐから。さっさと行けよ!」
 ぼくと理仁くんはうなずいた。後ろ髪を引かれながら、イヌワシに続いて隠し扉をくぐった。