扉の向こうは白い廊下だった。病院だ。白いリノリウムの床に、道案内のカラフルな矢印が描かれている。
 理仁くんがピンク色の矢印を指差した。
「入院病棟だよ。おれらが向かう先」
 イヌワシとともに、理仁くんが先頭を歩き出した。
 角を曲がると、リアさんが立っていた。白いパンツスーツ姿で、キッチリと髪をまとめている。
「二年くらい前の姉貴だ。あのスーツ、病院に行くときはよく着てた」
 リアさんは、一つの病室の扉をにらんでいた。何かをつぶやく形に唇が動くけれど、音は聞こえない。病室の表札を平手で叩いて、こちらに背を向けて歩き出す。ハイヒールの早足で、白い廊下を遠ざかっていく。
 煥くんが理仁くんに訊いた。
「誰が入院してんだ?」
「おふくろ」
「病気か?」
「植物状態ってやつ。問題なく生命活動してるし、目も開いてるし、座らせたり立たせたりもできるんだけど、意識が戻らないんだよね。病気が原因でも事故の後遺症でもなく、そんなふうになっちゃってさ~。ね、朱獣珠?」
 不吉に速いリズムで、朱獣珠が脈打っている。そこに同期した玄獣珠も、おそらく白獣珠も、身震いをしている。
 朱獣珠が訴える。
 ――いくつもの命を手に掛けた。人の命さえ手に掛けそうになった。
 ――苦痛。禁忌。罪悪。
 ――しかし、如何ともできない。
 願われて代償を与えられたら、条件を成立させねばならない。宝珠の宿命にとらわれた朱獣珠が哀れだ。
 リアさんを追って歩き出しながら、理仁くんは笑った。乾いた笑いは、つらければつらいほど出てくるんだろう。
「確かに代償として、おふくろはこんなふうになった。でも、親父が願ったわけじゃねぇんだゎ。おふくろ本人なの。学園経営がすげー財政難に陥ってさ、そしたら、おふくろ、自分で願った。自分の身はどうなってもいいから、って」
 なぜ? 自分を犠牲にしてまでも財産を守りたかった?
 理仁くんは懐中時計を取り出して、文字盤に視線を落とした。ぼくの位置からも文字盤が見えた。半分以上が暗転していた。
 煥くんが遠慮のない口調で言った。
「母親、自殺か?」
 理仁くんが肩をすくめた。
「かもね。でも、朱獣珠は命を奪わなかった。こいつ、平和主義者だから、本能的にそれを回避したんだと思うよ。命を奪わずに済む範囲でしか、願いを叶えなかった。で、おふくろは、五十歳の眠り姫ってわけ」
【絶望? 強迫観念? 刷り込み?】
「たぶん、全部だね。あんなのが旦那だったら絶望するし、次の代償を探さなきゃって強迫観念もあっただろうし、生活に困ったら何かを代償にって刷り込まれてただろうし」
 理仁くんの母親は怯《おび》えていたんだろうか。ペットの次に夫に殺されるのは自分だ、と。
 それとも、望んでいたんだろうか。どんな形でもいいから早く夫から解放されたい、と。
「理仁の母親は、理仁やリアさんを連れて逃げようとはしなかったのか?」
 ぼくもそれを思った。でも、できなかったんだろうという想像もつく。一般的な家庭内暴力であっても、配偶者から逃げ出せる被害者は少ない。
 理仁くんが肩をすくめた。
「平井のおっちゃんが言ってたんだけどさ。運命は、可能性の枝をたくさん持つ樹みたいなもんだ。でも、枝分かれのポイントは限定されてる。どうあがいても変わらない部分もある。親父が腐ってんのは、変わらない部分。おふくろが弱いのもそう。宿命って呼ぶんだって」
「別の一枝も同じなのか?」
「あっきー、何でそんなん訊くの?」
「平穏なのが宿命の枝があれば、そっちに行きゃいい。見てくるだけでも、気分、違うだろ」
 煥くん自身がそうしたいのかもしれない。よその一枝の自分が、この自分より幸せであるなら。入れ替わりたいわけではなく、ただ見てみたい。その言葉はキレイだ。
 でも。
「そんな一枝は、ないに等しいと思いますよ」
 総統から聞いた話のほうが説得力がある。
「ないって、海ちゃん、何で?」
「平和な自分を本当に見てしまったら、入れ替わりを望みますよ。結果、対象の二本の枝は生長を阻害し合う。入れ替わりではなく、呑み込みが起こる。あるいは、両方の枝がともに消滅してしまう」
 そもそも、平和な一枝の存在確率はきわめて低い。多数にあるという一枝は、もとは一本からのクローンだ。同じ宿命を持ち得る可能性のほうが圧倒的に高い。
 煥くんが、ふっと息を吐いた。笑いを洩らしたらしい。
「希望を持たせねぇんだな。あんたらしくて、かえって安心する」
 煥くんの言葉に、ぼくも少し笑った。
「宝珠のチカラを使えば、一枝に干渉できるでしょうね。別の一枝を引き寄せたり、この一枝の過去に戻ったり。でも、そこでぼくたちのできることは、壊すことだけですよ。万物は法則性と均衡の上に成り立っている。それを壊すだけが、強すぎるチカラの宿命です」
 だよね~、と理仁くんが抑揚もなく言った。