理仁くんがパンパンと手を打った。
「ま、とりあえず、仕切り直し。海ちゃんいじるのはこのへんにして、先のこと考えよっか。まずは現状確認。上から落ちてきたんだとしても、上には戻れそうにないね」
 理仁くんは上を指差した。果てを視認できないほど、天井が高い。円筒形の部屋。深い井戸の底みたいだ。
「で、ドアがいくつか見えるけど。現実的に言って、くぐれるドアはないっぽい」
 壁の上のほうにあるドアは、そこへよじ登るための取っ掛かりがない。無理なく開けられる高さにあるドアは、ずいぶん小さい。
「持ってくべきアイテムは、たぶんこれ。部屋の真ん中に落ちてた。でも、姉貴の趣味じゃないね。お坊ちゃんが用意したんだと思う」
 理仁くんが胸ポケットから出したのは、懐中時計のようなものだ。本体も鎖もゴールドでできていて、キラキラした石があちこちに埋め込まれ、バラの模様が彫刻されている。
 数字も目盛もない文字盤をのぞき込むと、針は一本きりだった。文字盤は大半がゴールドだけど、十二時から一時の部分は真っ黒だ。
「十二時の位置から動き出したところでしょうか。進んだ角度は約三十度、今は一時の位置を差してますね」
「海ちゃん、分度器なしで三十度とか、わかる?」
「この程度は、誰でも目測でわかりません?」
 理仁くんは首を左右に振った。
「無理無理。力学《フィジックス》の視界だから、今はわかるけど。あ、ちょうど三十度になった。これさ、海ちゃんの言うとおりで、たぶん〇度のとこからスタートしたんだよ。おれが見てたのは四.五度のとこから」
「針が進んだ後ろ側が暗転しているんですね」
「そうみたい。この黒い部分さ、針が進むのに合わせて、影みたいに、じわじわついてきて広がってんの」
 鈴蘭さんが、服の上から青獣珠に触れながら、眉をひそめた。
「タイムリミットを示してるように感じますね。針が一周して、文字盤全体が暗転したらおしまい、って」
 異物を侵入させたリアさんのココロのタイムリミットか。他人のココロに閉じ込められたぼくたちのタイムリミットか。いずれにしても、この直感はきっと正しい。玄獣珠がうなずく気配がある。
 煥くんが眉間にしわを寄せた。
「この部屋から出て、先に進みたい。けど、ヒントも何もない。しかも、ここはリアさんのココロの中だろ? 部屋に傷を付けるのもまずい気がする」
 不意に。
 パタン、と音がした。扉が閉まる音だ。
 全員、音のほうを向く。
「あ、イヌワシのぬいぐるみ」
 リアさんと初めて会ったとき、ゲーセンで取ったぬいぐるみだ。黒い翼に緑色がかった目、不敵な笑み、チェック柄のタキシード。リアさんが妙に気に入っていた。ぼくに似ているなんて言っていた。
 ぬいぐるみが動いている。思いがけず広い翼を広げて、ふわりと宙に浮いている。浮いているだけだ。あの形状では、羽ばたいて飛ぶには物理学的に不可能だから。
 イヌワシが翼をクイクイと動かした。手招きしているように見えた。
【道案内?】
 イヌワシがうなずいた。
 鈴蘭さんが真っ先にイヌワシに近付こうとした。煥くんが腕をつかむ。
「ついて行くのか?」
「はい。大丈夫だと思います。あのぬいぐるみ、かわいいし」
 かわいいかどうかは、この際、関係ない。というか、あれはかわいくないと思う。
 煥くんが鈴蘭さんの先に立った。理仁くんがぼくを振り返った。
「あの鳥さん、もしかして海ちゃん絡み?」
「ええ、一応」
「あっそ」
「どうかしました?」
「こないだ、姉貴が珍しくぬいぐるみなんか持ってて、出所を訊いたんだけど、教えてくれなかった。あのゲーセンデートの思い出の品ってわけ。なるほどね~、姉貴が妙に機嫌よかったわけだゎ~」
 語弊のある言い方をして、理仁くんは歩き出した。ぼくは理仁くんに並んだ。
「ぼくと同じ立場なら、男は誰でも同じことしましたよ。美人が不良にナンパされてたら、助けるでしょう? その美人に、時間つぶしに付き合ってと言われたら、応じるでしょう? ぬいぐるみを取ってほしいとリクエストされたら……」
「リア充爆発しろ~。って、ダジャレのつもりないんだけど」
 イヌワシが振り向いて、理仁くんをにらんだ。
 部屋の壁は木製タイルでできている。イヌワシは、その一角に飛んでいって、タイルを押した。
 タイル四枚ぶんの正方形が隠し扉になっていた。正方形は、一辺が約800mm。扉と呼ぶには狭いけど、通れなくはない。
 イヌワシが最初に隠し扉を抜けた。のぞき込むと、トンネル状になっているらしい。さほど奥行きはなく、抜け出た先は明るいようだ。
 煥くんがイヌワシに続いてトンネルをくぐった。向こうにたどり着いて、問題ない、と声を寄越す。
 鈴蘭さんと理仁くんも向こう側へ行った。ぼくが最後にトンネルに入る。
 四つん這いの姿勢で、すぐ目の前に光が見えている。その割に、長い。
 ――海牙くん。
 遠くて近いどこかから、声が聞こえる。ココロへ落ちて潜ってくる途中で聞いた声だ。
【リアさん】
 呼び掛けてみる。返事はない。ただ、ぼくの名前を呼ぶ声だけが聞こえる。
 ――海牙くん。
 ぼくで、いいんですか? 弟である理仁くんじゃなく、ぼくを、呼んでくれるんですか?
 ぼくにあなたの声が聞こえるように、あなたにも、ぼくの声が聞こえていますか?