結局、朝の出来事は学園じゅうの噂になってしまった。
「鈴蘭! 何で黙ってたのよ? いつから煥先輩と付き合ってたの? 銀髪の悪魔って、どんなふうに笑うの?」
 訊かれるたびに否定する。
「黙ってたわけじゃない。付き合ってない。笑ったとこ、見たことない」
 否定するたびに、思い知らされる。
「えーっ、一方通行? 相手があの人じゃ、絶対大変だよ!」
 わかっているってば。すでに何度も心を折られかけたもん。目の前でピシャッとドアを閉められる感じで。
 今日だけで何人に励まされたかな?
「頑張ってね、鈴蘭! 応援してるから!」
 応援とか言って、おもしろがっているだけでしょ?
 煥先輩って、わからない。朝、わたしが泣いたとき、いつの間にか煥先輩の手がわたしの肩に添えられていた。
 温かくて、大きな手のひらだった。煥先輩は赤面しやすくて、照れるとすぐに手のひらで口元を覆う。その手の形が好き。
 人と接触するのが苦手なのに、今朝、煥先輩はわたしを拒まなかった。
「残酷すぎる……」
 期待させるんだもん。本当はそうじゃないくせに。ただ優しいだけで、好きとか、そんなんじゃないくせに。
 小夜子を消し去った選択も、そう。残酷だけれど、優しくて正しかった。
 一日じゅう、ぼんやりしながら過ごしてしまった。悲惨なことに、噂を耳に入れた先生もいらっしゃった。
「安豊寺、悩みがあるなら相談しなさい。グレるんじゃないぞ」
 真剣にそう言われた。


 放課後、軽音部室に直行したい気持ちを抑えて図書室に行った。最終下校時刻ギリギリまで勉強する。集中できなかったけれど。
 時間になって荷物をまとめて、カバンに付けた三日月のアミュレットに触れる。
 三日月はクレセントだ。ムーンではない。煥先輩は、わたしをブルームーンだと勘違いしていた。わたしを信じ続けてくれたのは、そのためもあったかもしれない。
 ひとけのない廊下を歩く。軽音部室のドアが開いて、煥先輩がわたしを見付けて、ふぅっと息を吐いた。
「三度目だな。兄貴のケガ、頼む」
 わたしのチカラに、瑪都流は少しだけ驚いた。全員、わたしが来ることは知っていた。文徳先輩はわたしにお礼を言って、種明かしした。
「今朝のこと、煥に問い詰めたんだ。そしたらこいつ、いろいろあったんだ、放課後に部室に来るはずだ、って言ってね。煥が世話になったみたいだね。不思議な話だけど」
「いえ、そんな。お世話になったのはわたしのほうです」
 雄先輩が、煥先輩をからかった。
「新曲の詞が完成したのって、ひょっとして、こちらのお姫さまのおかげ?」
 煥先輩は肯定も否定もしなかった。
 帰りは、送ってもらうことになった。煥先輩と文徳先輩が来てくれる。文徳先輩が部室の鍵を職員室に返す間、わたしと煥先輩は生徒玄関で待っていた。
 二人きりの沈黙は重い。わたしは煥先輩の横顔を見上げた。鼻筋のライン。まつげの長さ。薄い唇の形。何度見てもキレイだ。
「言いたいことでもあるのか?」
 凛と響く声が、ささやくトーンで訊いた。金色にきらめく目は正面を向いたままだ。わたしは空を見上げる。十三夜の月がある。
「煥先輩に、一つ、答えてほしいことがあります」
「何だ?」
「ブルームーンは、特別な存在だったんですね?」
「あのメールのことか?」
「はい」
 煥先輩はちょっとの間、口をつぐんだ。迷うような気配があった。それから、煥先輩はキッパリした口調で言った。
「タイミングとか巡り合わせとかって、あるだろ? あのメールは特別なタイミングだった。それだけだ」
 煥先輩が悩んでいた朝にメールが届いて、メールが届いた日にわたしが現れた。
 勘違いしたままだったら、もしかしたら、煥先輩はわたしを特別な存在にしてくれた? もしも小夜子が普通の女の子で、ブルームーンの正体が小夜子だとわかったら、煥先輩は小夜子を好きになった?
 何かに似ている、と思った。何だっけ? じっと考えて、思い当たった。
「人魚姫みたい」
「あ?」
「海で溺れる王子さまを救ったのは、人魚姫。王子さまは、浜辺で目を覚ましたときにそばにいた人間の女の子を命の恩人だと勘違いする。人魚姫は真実を告げることができずに、王子さまは人間の女の子と結ばれる。人魚姫は海の泡になって消えてしまう」
 小夜子は人魚姫だ。月の光になって消えてしまった。王子さまはブルームーンを大切に思っていたのに、それを知ることもないまま小夜子はいなくなった。
 煥先輩はかぶりを振った。
「意味、わかんねぇよ」
 心底わからない、って言い方だった。