視界にあるのは夜空だった。満月に少し足りない、明るい月。ほどほどに都会の夜景にかすむ星々。
「鈴蘭?」
 呼ばれて、ハッとする。
 亜美先輩がわたしの肩をそっと抱いた。振り返ると、赤い特攻服の男が二人、伸びている。
 ライヴの後の光景。嫦娥《じょうが》公園の裏だ。亜美先輩が緋炎《ひえん》の二人を倒して、わたしは亜美先輩を刺さなかった。
 時間が巻き戻った。ポーチの中で、ツルギの柄の形をした青獣珠が不機嫌そうな鼓動を刻んでいる。逆流して再開した時間のあり方を気持ち悪がっている。
 長江先輩と海牙さんは違反者じゃなかった。
 北口広場へと歩き出して、すぐに文徳《ふみのり》先輩と煥《あきら》先輩も合流する。煥先輩はまっすぐわたしに近付いてきた。
「鈴蘭、無事か?」
 口調はぶっきらぼうで、ニコリともしていない。でも、心配してくれている? わたしはドギマギしてしまった。
「わ、わたしは何ともありません。青獣珠はちょっと、嫌がっている感じがしますけど」
 煥先輩は顔を背けた。
「だったら別にいい。最初のとき、白獣珠は光って暴れて手が付けられなくて、オレも兄貴も驚かされたんだ」
「そんなに? 四獣珠って、それぞれ性格が違うんでしょうか?」
 煥先輩はイヤそうに顔をしかめた。
「預かり手の性格に似るらしい。ふざけんなってんだ。オレはあんなにパニクらねぇよ」
「似てると思います」
「は?」
「あのっ、パニックになったっていうか、白獣珠は本気で怒ったんだと思います。殺されてはならない人が刺されて、それが許せなくて。煥先輩もそうですよね。潔白で正しい感情だと、わたし、思います」
 勢い込んで言い始めたものの、最後のほうは声がしぼんでしまった。煥先輩はわたしに向き直って、微笑むのとは違う形に目を細めた。
 文徳先輩が首をかしげた。
「また何かあったのか? 時間が巻き戻った?」
 煥先輩はうなずいた。
「明日の昼休みから戻って来た」
「後でまた詳しく話せよ。履歴を記録しておく」
 亜美先輩が苦笑いで提案した。
「今回はちょっと油断してたよ。次からは煥にも声かける。鈴蘭の護衛は、煥に任せるね」
「わかってる」
 北口広場に戻ったら、長江先輩がわたしたちに手を挙げて、与えられた台本をこなすように駆け寄ってきた。
「文徳~! やっぱいいねぇ、瑪都流《バァトル》のロックは!」
 にこやかに応じる文徳先輩。長江先輩のテレパシーがこっそりと告げる。
【っていう感じだったよね? しっかし、びっくりしたよ~。いっぺん完璧に死んだのがわかったからね、おれ。でも、ま、身の潔白の証明にはなったでしょ?】
 かがみ込んでいた海牙さんがスッと立って、髪を掻き上げた。顔には、計算された微笑みがある。
「さて。改めて自己紹介が必要、というわけですか?」
 煥先輩が何か言いかけた。文徳先輩が肩をすくめて口を挟んだ。
「おれも亜美も能力者じゃない。この場面は初めて経験するんだ。大都高校の彼の名前は知らない。どこかで見かけた気はするけど」
「予備校主催の模試の会場で会ったかもね。ぼくは阿里海牙、大都の三年です」
「ああ、なるほど。全国ランキング上位の常連だよな?」
「一応ね。伊呂波《いろは》文徳くんのことも聞いてますよ。ライヴ、お疲れさまでした」
 長江先輩が海牙さんの肩を叩いた。
「この人、意外と強引だよ~。冷静そうに見えて、すっげぇ無茶すんの。どっちかが黒だったら、どうするつもりだった? 片方、あっさりあの世行きよ?」
「まあ、確かに。我ながら、感情的なことをしてしまいました。だけど、確信があったんですよ。ぼくは願っていない。リヒちゃんが願うはずもない。お互い、十七年の人生を懸けて誓えるでしょう?」
 長江先輩が腕を広げてみせる。
「誓っていいけどね。それはともかくとして、明日の昼休みも屋上に集合ね。別の話、したいし。あ、何なら、平井のおっちゃんも来ます?」
 水を向けられた平井さんが微笑んで、かぶりを振った。
「私は、自分では動いてはならないからね。必要だと感じたときに、きみたちが私のところへ来なさい。それが私の役割だ」
 深みのある声だった。耳から聞こえる音だけじゃない「波長」も同時に孕《はら》む声だと、わたしは気が付いた。
 わたしは平井さんに向き合った。
「ご存じかもしれませんが、安豊寺鈴蘭といいます。平井さんも能力者なんですか?」
【お察しのとおりだよ。私もチカラを使う。巻き戻しも感知している。数年後の未来で起こされた最初の巻き戻しはね、夢ではないのだよ】
 声でない声が頭の中に響く。長江先輩の号令《コマンド》と似た声だけれど、チカラの声量が圧倒的に違う。平井さんの声には、凄まじい力感がある。ひれ伏してしまいそうになる。
【ああ、声が大きくて、すまないね。そう硬くならないでほしい】
 思っていることを読まれた?
【聞こえてしまうのだよ。重ね重ね、すまないね。小さなチカラは、かえって制御しづらい】
 小さなチカラ? テレパシーや読心術って、小さいの?
【宝珠にもさまざまなものがある。四獣珠クラスのサイズだけではない、ということだよ。いずれ話そう。場所は、そうだな、嫦娥公園はどうだろう? 白いツツジが美しく咲いている。夜の散歩には、もってこいだね】
 きっと、それは予言だ。わたしは近いうちに嫦娥公園を訪れる。夜、そこで平井さんと話をする。
 ひざが屈するのをこらえきれなくて、わたしは、ひざを折ってスカートをつまむお辞儀をした。
 煥先輩が一歩、踏み出した。
「四獣珠よりもデカい宝珠がある。あんたはそれを預かってる。だから、オレたちよりデカいチカラを使える。そう言いたいのか?」
【負けん気を剥《む》き出しにされても困るよ。伊呂波煥くんは、やんちゃだね。若いなぁ】
「ナメんな」
【銀髪の悪魔、か。悪魔と呼ばれるには優しすぎるようだが】
 長江先輩がパンパンと手を打った。
「はーい、そろそろ内緒話終了~。平井のおっちゃんのチカラ、反則っすよぉ? おれのと、かぶってんじゃん。小さいとか言われると、地味にへこむんだよね」
 平井さんが穏やかに笑って、お口にチャックの仕草をした。ふっと重圧が緩んだ。
 煥先輩が長江先輩をにらんだ。
「昼休み、屋上に行けばいいんだな?」
「何なら迎えに行こうか~?」
「いらん」
「つれないな~。男が迎えに来ても嬉しくない? かわいい女の子じゃなきゃダメ?」
「またそういうくだらねぇ話を……」
「あっきーの好みって、髪が長くて色白でもちもち系で、小柄でお目めキラキラな美少女って感じで合ってたっけ?」
「黙れ」
 煥先輩は長江先輩の胸倉をつかんだ。長江先輩はニヤニヤしている。
「おっ、新事実に気付いた! 鈴蘭ちゃんって完璧じゃん。あっきーの好みのタイプ、ど真ん中!」
「ええっ?」
 大声をあげてしまったのはわたしだ。慌てて口元を覆う。
 煥先輩は横を向いて、乱暴な仕草で長江先輩から手を離した。長江先輩はニヤニヤ顔のまま、襟元を直しながら、煥先輩の顔をのぞき込む。
「おっや~? なんか新鮮なリアクションだね。心当たりあるわけ、あっきー?」
「どうでもいいだろ」
「よくないよくない! すっごい気になる!」
「くだらねえ。オレは誰も好きにならねぇよ。相手が迷惑するだけだろうからな」
 煥先輩は吐き捨てて、北口広場の隅のベンチへ行ってしまった。
「ありゃ~。あんないじけ方するとは思わなかった」
 長江先輩はポリポリと頭を掻いた。
 迷惑なんてことないのに。煥先輩は知らないだけだ。小夜子は煥先輩のファンなんだよ。明日、やっぱり紹介してあげなきゃ。
 文徳先輩が肩をすくめた。
「しょうがないだろ、あいつ。すぐにいじけるんだ。ちなみに、鈴蘭さんとしてはどう?」
「は、はい?」
「煥の好みのタイプって言われて、迷惑?」
「え、えっと」
「鈴蘭さんは、おれにも煥にも媚びない。しっかりしてるし、だから煥にいい影響を与えてくれるかなって、勝手にそんなことを思ってるんだけど」
「もしかして、それで煥先輩にわたしの護衛を?」
 亜美先輩が文徳先輩を軽く叩いた。
「相変わらずお節介だね。ごめんね、鈴蘭。文徳が勝手なこと言って」
「い、いえ」
 頭がぐるぐるする。文徳先輩は残酷だ。わたしの想いに気付ずに、わたしと煥先輩をくっつけようとしていて、でも、そこにまったく悪意はなくて。
 悲しい。泣きたい。けれど、わたしは笑う。
「煥先輩は頼りになります。煥先輩がボディガードだなんて、ぜいたくです」
 愛想笑いのお世辞。嘘じゃないけど、お世辞。
 本当は文徳先輩に守ってもらいたい。文徳先輩の好みのタイプって言ってほしい。わたしが好きなのは文徳先輩だ。
 でも、文徳先輩の心には亜美先輩しかいない。
 帰り道、煥先輩はやっぱり無言だった。