突然。
「おい、兄貴」
その声は、空気をまっすぐ貫いた。
大声ではなくて、むしろ、ささやきに近い。けれど、ピシリとよく通る声だった。
声の主は数歩先にいた。その姿に、わたしは思わず息を呑む。
銀色の髪、金色の瞳。両耳にはリングのピアス。長めの前髪に隠れがちの、不機嫌そうな無表情。切れ長な目、スッとした鼻筋、薄い唇は、作り物みたいに整っている。
着崩した制服の、見るからに不良だ。
不良っぽい銀髪の人がわたしを見た。金色の目には温度が感じられない。この人が、文徳先輩の弟? 確かに顔立ちはよく似ている。背は、文徳先輩のほうが高い。
銀髪の人はクルッと背を向けた。
「兄貴、遅い。先に行くぞ」
低い声なのに、響く。クリスタルの結晶みたいな声だと、なんとなく感じた。男の人の声を透明だと感じたのは初めてだ。透き通って、尖っていて、冷たい。そして、とてもキレイだ。
文徳先輩が肩をすくめた。
「あいつがおれの弟の煥《あきら》。普通科の二年だよ。愛想がなくて、悪いな。おれのバンドのヴォーカルなんだけど。歌うとき以外はずっとあの調子なんだ」
「歌う人なんですね。声、印象的ですもんね」
「あ、わかる? あいつの声、いいだろ? 兄弟なのに、声は全然違う。あいつだけ、ほんとに特別な声してるよ。おれ、あいつの声が好きでさ。よかったら、聴きに来てほしいな」
「機会があったら、ぜひ。文徳先輩がギターを弾くところも見たいです」
「ありがとう。まあ、そのうちね。じゃあ、おれ、煥を追い掛けるから」
チラッと手を振った文徳先輩が、軽快に駆け出した。
文徳先輩が煥先輩に追い付いた。あ、やっぱり文徳先輩のほうが背が高い。二人とも脚が長いな。
笑いながら煥先輩に話しかける文徳先輩の横顔は、生き生きとして楽しそうだ。生徒会長としての堂々とした姿もカッコいいけれど、あんなふうに普通に楽しんでる姿もいい。何もかもがカッコいい。
朝から幸せな気分だ。体がふわふわする。
「お嬢、よかったじゃん! 名前、覚えてもらってんだね!」
いつの間にか、寧々ちゃんが隣にいた。
尾張くんは、いつになく目を輝かせている。
「煥先輩、カッケェよな。すげぇ強いんだぜ。強すぎて、銀髪の悪魔って呼ばれてんの」
「銀髪の悪魔? 強いって、ケンカのこと?」
「当然。それに、バイク乗っても速いって噂だ。すげぇよな」
男子の「すごい」の基準はよくわからない。ケンカが強いことって、ステータスなの?
「暴力は好きじゃないな」
思わず本音をこぼした。
博愛主義者を名乗るつもりはないけれど、暴力で相手を屈服させるのは道徳に反する。いじめと同じだと思う。そういうのは嫌い。
尾張くんがオレンジ色の髪を掻いた。
「あー、そうだったな。うん、変な話して、悪ぃ」
オレンジ色をした尾張くんの髪は、校則で認められている。去年から、襄陽学園では髪の色が自由だ。文徳先輩が生徒会を率いて先生方に掛け合って、髪の色を含むいくつかの規制を撤廃したんだって。
わたしは髪を染めることには興味がないけれど、文徳先輩が掲げる「自立」というモットーは素晴らしいと思う。自立こそ、わたしの目標だ。
「頑張らなきゃ」
文徳先輩に振り向いてもらいたい。今はまだ、たくさんのファンの中の一人。だけど、いつか特別な一人になりたい。
「お嬢、ほら、突っ立ってないで。ボーッとしてたら遅刻するよ」
「あ、うん」
「あーぁ。ついにお嬢にも好きな人ができちゃったか。あたし一筋だと思ってたんだけどなー」
寧々ちゃんがいじけたふりをする。わたしは寧々ちゃんの腕に自分の腕を絡めた。
「そんなこと言って、寧々ちゃんだって尾張くんがいるでしょ?」
「タカより断然、お嬢が好き!」
寧々ちゃんが高らかに宣言する。尾張くんが思いっきり顔をしかめた。
「おまえら、いい加減なこと言ってんじゃねぇよ!」
生徒玄関で寧々ちゃんたちと別れた。靴箱のところでクラスメイトと一緒になったから、数学の宿題のことを話しながら教室へ向かう。
「おはよう」
「あ、おはよ」
気楽な挨拶が飛び交う。
「安豊寺さん、さっき、文徳先輩と話してなかった?」
「話してたよ」
「ずるいー!」
「えへへ、ずるいでしょ?」
襄陽学園の進学科にしてよかった。価値観が似ている人が多い気がする。似てなくても敵じゃなくて、違う価値観に対して大らかだ。自分に自信があるから、ブレないのかな。
中学時代はこうじゃなかった。わたしのことを嫌いな人は最後まで嫌っていて、寧々ちゃんの目を盗んでの嫌がらせが絶えなかった。
「数学の課題、解けた?」
「一つわからなかったよ」
「だよねー。高校の数学、ヤバすぎるって」
「ヤバすぎるね。進学科だもんね」
恥ずかしながら、わたしは数学が苦手で、授業開始から一週間にして、もうふぅふぅ言っている。
頑張らなきゃね。文徳先輩みたいに。
放課後、わたしは帰宅部だけれど、すぐには帰宅しない。最終下校時刻ギリギリまで図書室で勉強する。
中学時代にずっと図書委員だったわたしは、図書室という場所が好きだ。本の匂いに包まれていると、気持ちが落ち着く。
勉強スペースを使うのは、受験を控えた三年生が多いみたい。赤本とにらめっこする先輩たちにまぎれて、一年生のわたしは今日も、初歩的な因数分解に四苦八苦している。
わたしの父は大学の教授で、わたしの中学時代の家庭教師は父の教え子だった。でも、この春に卒業してしまった。
新しい家庭教師は探さなかった。自力で勉強することに決めたから。人から教わるとわかりやすいけれど、詰め込まれるみたいでもあって、息苦しくなってしまう。
とはいえ、自力で頑張ると父の前で宣言したものの、図書室での自主学習はやっぱり大変だ。あっという間に時間が過ぎてしまって、あせりが募る。
文徳先輩がフラッと図書室に来て、わたしに勉強を教えてくれたりしないかな? なんていう淡い望みは、今まで一度も叶ったことがないわけで。
校庭から離れた場所にある図書室は静かだ。スポーツ系の部活の声は聞こえない。音楽室からも遠い。かすかにブラスバンドの音が聞こえる日もあるけれど。
その静かな図書室に、校内放送が流れる。
「まもなく最終下校時刻になります」
十九時に校舎の明かりが消される。今は十八時四十分を回ったところ。やっぱり今日も、予定していたよりも予習に手間取っている。家でも頑張らなきゃ。
わたしは荷物をまとめて図書室を出た。窓の外は薄暗い。晴れた空に、満月に近い月が見える。
「キレイな月。願いを叶えてくれてありがとう。文徳先輩と会って話せたよ」
月に願いを掛けるのは、子どものころからの習慣だ。流れ星より、月なの。
ひとけのない廊下を歩き出す。図書室は校舎の隅にある。普段の授業では出入りしない棟だから、最初は迷ってしまった。
玄関に至るまでにいろんな教室の前を通る。家庭科室、視聴覚室、芸術系コースの特別教室、何かの委員会の居室、教科担当の先生方の居室。
襄陽学園は大きくて、校舎を歩くたびに新しい発見がある。この時間帯は無人だから、少し不気味だけれど。
そう。この棟を抜けるまでは無人だと思っていた。
いきなりだった。
すぐ目の前のドアが開いた。びっくりして、わたしは足を止める。
部屋の内側からドアを支える彼は、部屋の中に向かって声をあげた。
「とにかく兄貴は止血してろ。保健室かどこかから人を連れて来る!」
一度聞いたら忘れられない、その声。クリスタルみたいだと感じた、男の人の声だ。
ドアから姿を現したのは煥先輩だ。文徳先輩の弟の、銀髪の悪魔さん。
煥先輩は廊下に飛び出そうとして、ビクッと体をこわばらせた。わたしがいるなんて思っていなかったみたい。
わたしは煥先輩に詰め寄った。
「文徳先輩、ケガされたんですか?」
煥先輩が眉をひそめた。
「あんたは?」
「ケガだったら、わたしが治せます!」
「治せる? 兄貴のケガを?」
わたしは煥先輩の隣をすり抜けて部屋に飛び込んだ。
「失礼します!」
音楽をやるための部屋だった。ドラムセット、シンセサイザー、スピーカー。スタンドに置かれたエレキギターとエレキベース。音楽室と同じ材質の壁と天井。
文徳先輩が床に座り込んでいた。左手の指をタオル越しにつかんでいる。タオルは真っ赤に染みていた。
「鈴蘭さん?」
文徳先輩が目を丸くした。
初めて見るラフなTシャツ姿にドキッとしてしまいながら、わたしはカバンを投げ出して、文徳先輩に駆け寄った。
部屋には、文徳先輩のほかに三人いた。男の人が二人、女の人が一人。そこへ、煥先輩がドアを閉めて戻ってくる。
こんなことするの、まずいかもしれない。でも。だけど。
わたしは意を決して、迷いを捨てた。
「文徳先輩、傷口を見せてください」
「あ……ああ、けっこうパックリいってるよ」
文徳先輩はタオルをほどいた。左手の薬指の腹に、真っ赤な直線が走っている。直線から、見る間に血があふれ出した。
「わ……」
思わず、ひるんでしまう。背筋がザワザワした。
「ギターの弦の太いのが切れちゃって。演奏中だったから慌てたら、ザクッとやってしまった」
文徳先輩は苦笑いした。その傷のある手に、わたしは、そっと手を伸ばした。
「し、失礼します」
声が震えてしまった。手も震えている。
わたしは文徳先輩の左手に触れた。大きな手は、少しザラッとしてる。手のひらの厚みや、関節の太さ、爪の大きさ。自分の手とは全然違うから、一つひとつにドキドキしてしまう。
文徳先輩がわたしを見ている。わたしは顔を上げられない。血があふれ出す傷口に、右手をかざす。呼吸を整える。
青い光を、胸の中にイメージする。温かくたゆたう水のような、優しく包む月影のような、青くて柔らかで透き通った光。
光がわたしの手のひらから染み出す。
文徳先輩が息を呑む。かすかな息遣いすらわかるくらい、わたしは文徳先輩の近くにいる。
カバンの中で青獣珠が呼応している。預かり手であるわたしがチカラを使うせいだ。
わたしのチカラは「癒傷《ナース》」。傷の痛みをわたしの中へ移すことで、対象の傷を治すことができる。
痛みを移すのは、吸い出すイメージだ。息をゆっくりと吐き切って、それから、細く長く吸っていく。
青い光が傷口に絡み付く。わたしは傷口から痛みを吸い出していく。
痛い。
左手の薬指がズキズキする。深い傷。しかも、鋭い刃物の傷じゃない。えぐれた格好の傷だ。覚悟していたよりずっと痛い。
でも、耐えなきゃ。きちんと痛みを吸い出して、文徳先輩を助けなきゃ。
わたしは一度、息を吐いた。また、ゆっくりと吸う。
薬指のズキズキが収まってくる。しゅわしゅわと、傷口が温かい。パックリ開いていたのが、ふさがっていく。
文徳先輩が吐息交じりに言った。
「傷が、消えた……」
左手の薬指から痛みが消えた。青い光がひとりでにしぼんだ。傷の治療が完了したんだ。
状況だけが後に残された。わたしが文徳先輩の左手に触れている。
後ろから声が降ってきた。
「おい、あんた」
煥先輩の透明な声は、感情が読みづらい。ただ、硬い響きだった。
わたしは顔を上げた。文徳先輩が真剣な表情をしていた。
「鈴蘭さん、今のチカラは?」
「あの……」
「きみ、能力者だったのか。預かり手なんだな?」
確信的な文徳先輩の言葉。わたしは頭が真っ白になった。
とっさにチカラを使ってしまったけれど、本当は決して誉められたことじゃない。チカラは大っぴらにしてはいけない。青獣珠の存在を隠しておくべきなのと同様に。
わたしは立ち上がった。視線が集まる。誰の目を見ることもできない。
「このことは……お願いします。秘密に、しておいてください」
体が震える。わたしはきびすを返した。カバンを拾い上げて、早足でドアに向かう。
ドアを開ける瞬間、呼び止められた。
「おい、待て」
文徳先輩じゃなくて、煥先輩だ。
「……失礼しました」
わたしは部屋から飛び出した。カバンを胸に抱えて、誰もいない廊下を走る。
やってしまった。
文徳先輩がケガしていた。見過ごせなかった。だって、わたしならすぐに治してあげられる。
でも、わたしのチカラは普通じゃない。「特別」ならまだいい。「異常」と思われたかもしれない。
化け物だよね? 気持ち悪いよね?
めちゃくちゃに走った。いつの間にか靴箱の前にいる。息が切れて苦しい。
「嫌われたら、どうしよう……」
わたしはうずくまった。
=======================
From : princess-blue-moon@**.**
To :
Sub : 初めまして
20XX/4/15 05:09
=======================
瑪都流の煥さま
初めまして。
おはようございます。
突然メールして、ごめんなさい。
ブルームーンより、願いを込めて。
歌うあなたに、幸運な未来を。
○.:*゚Blue Moon*゚:.○
=======================
書き起こしたはいいけれど、続きが書けない。伝えたいことがありすぎて、わたしの中からあふれ出しそうで、言葉が上手に追い付かない。
あなたの声に聴き惚れた。一瞬で恋に落ちた。ねえ、どうかわたしを見つめて。
わたしはわがままでしょうか? ですが、恋をすれば、誰しもわがままになるものでしょう?
あなたに伝えたい。物語がすでに始まっていること。わたしたちの恋がもう動き出していること。どうか、わたしの想いに応えてください。
わたしは祈りを込めて、短いメッセージのために、言葉を選んで編んでいく。
座標
A(鈴蘭自宅,4月15日6:40,夢中流血)
零幕:学園皇子
[4月15日朝→4月15日放課後]
寧々ちゃんからメールが来ていた。
〈ゴメン! やっぱ一緒に帰れないよ。今から弓具店に行ってくるね。また明日!〉
ホッとしてしまった。わたしは今、誰にも会えない状況だから。不安すぎて、頭が働かなくて、変なことを口走りそうで怖い。
寧々ちゃんはわたしのチカラを知ってる。尾張くんも、順一先輩も。でも、誰にも言いふらさないし、変な目で見たりもしない。
三人ともアーチェリーの練習やケンカのせいで、しょっちゅうケガをする。でも、わたしのチカラを頼ってこない。
「だって、お嬢が痛い思いするんでしょ? それはイヤだよ。あたしらは慣れてるからいいけどさ」
寧々ちゃんはそう言ってくれる。
チカラを怖がらない人もいる。悪用することもなく、普通に接してくれる。文徳《ふみのり》先輩もそんなふうだと思いたい。でも、違ったら?
文徳先輩に化け物扱いされたくない。文徳先輩が化け物扱いするところを見たくない。その両方の思いで、わたしの胸はふさがっている。不安で不安で仕方がない。
わたしはカバンからポーチを出した。水色の生地に白い小花模様で、寧々ちゃんと色違いのお揃いだ。中には、ツルギの柄の形をした青獣珠を入れている。
「大丈夫、わたしは大丈夫。青獣珠の預かり手として、しっかりしなきゃ」
うずくまっていても仕方ない。わたしは立ち上がった。
一人きりの帰り道だ。左手にカバンを提げて、右手でツルギを抱きしめて、そろそろと歩いていく。
真っ暗とはいえない。街灯はある。でも、住宅地にはひとけが少ない。中学時代よりも通学距離が伸びたし、下校時刻も遅くなった。寧々ちゃんたちと帰るときには何とも思わないけれど、一人だと心細くなる。
唐突に、背筋が冷たくなった。
気が付いたんだ。
足音が聞こえる。ひたひたと、ついて来る。
勘違い? 自分の足音が反響しているだけ?
違う。歩幅のリズムが違う。
帰る方角が同じの誰かが後ろのいるの? でも、何かが不気味だ。ただの勘だけれど、わたしの悪い予感はよく当たる。
角を曲がる。この先は細い路地が百メートルくらい続いて、街灯の数が少ない。わたしは思わず走り出した。足音が路地に響く。
二十歩も進めなかった。
路地の先に光がともった。光の中に、赤い服の人が立ちはだかる。その人がこっちを向いてニヤニヤした。表情がわかる距離だった。
小さな駐車場に赤い大型バイクが停められている。光はバイクのヘッドライトだ。その人の赤い服にギョッとした。
特攻服だ。寧々ちゃんの言葉が頭をよぎる。
「隣町の不良グループは緋炎《ひえん》っていうの。昭和の暴走族気取りで、幹部は真っ赤な特攻服なんだよ。バカをこじらせたヤバいやつばっかで、マジで話が通じないんだ。赤い特攻服を見たらとにかく逃げて」
特攻服の人が口を開いた。
「カノジョ、何か急ぎの用事? なあ、おれらと遊ばねえ?」
猫撫で声にゾッとする。わたしは後ずさった。
背後で騒々しい足音がした。振り返ると、ダラッとした学ランのシルエット。あの制服、隣町の公立高校だ。
赤い特攻服が言った。
「カノジョ、訊きてぇんだが。朝、伊呂波《いろは》文徳と話してただろ?」
この人、何? 文徳先輩のことを狙っているの?
赤い特攻服が、耳障りな声で笑う。
「そんなににらむなって。カノジョ、かわいい顔してんじゃん? な、ちょっと来いよ。生徒会長サマより、おれと一緒のほうが楽しいぜ」
気持ち悪い。怖くて、それ以上に気持ち悪い。
赤い特攻服のニヤニヤ笑いに、いやらしい感情が透けて見える。
「こ、来ないで……」
叫んだつもりだった。のどに力が入らない。
赤い特攻服は、ニヤニヤがをさらにギラつかせながら、わたしのほうへやって来る。背後の学ランも近寄ってくる。
大声を出せば、誰かに聞こえるはず。でも、どうやって大声を?
声の出し方がわからない。
体が震える。赤い特攻服がわたしに手を伸ばした。鳥肌が立つ。全身がすくむ。
赤い特攻服がわたしの肩を撫でる。
気持ち悪い。やめて。
「そんな顔すんなって。仲良くしようぜ? こう見えて、おれ優しいからよ。かわいい女には、いい思いをさせてやるぜ」
ニヤニヤ笑いが近付いてくる。気持ち悪い。汚い。怖い。手を振り払いたいのに、体が動かない。
左手のカバンが地面に落ちた。
男の手がブレザーの内側に入り込んでくる。
「おっ、デケェな。背ぇ低くて巨乳かよ。ヤベェ」
胸がぐにゃりと形を変える。
生理的な嫌悪感、恥ずかしさ、怒り。ごちゃ混ぜに沸騰する感情に、吐き気がする。
なのに。
こんなに感情は暴れているのに、体が動かない。
赤い特攻服が鼻息を荒くした。わたしはコンクリートの塀に押し付けられる。頭も背中も打った。痛くて涙が出る。
ポーチをつかんだ右手が、胸の前から引き剥《は》がされた。カッターシャツのボタンが千切られた。素肌に夜の空気が触れる。
おかしい。こんなの、おかしい。
わたしの体に触れていい人は、こいつじゃない。わたしが全部を差し出したい相手は、こいつじゃない。
こんなの絶対におかしいッ!
青い光が頭の中で爆発した。仰いだ視界に月がきらめいた。
青獣珠が騒ぎ出す。
――チカラが干渉し合っている――
いつかどこかで聞いた声が頭の中に響く。
【この恋が実る真実の未来へとたどり着くために、何度だって時を巻き戻す】
制服のリボンが奪われた。芋虫みたいな指が這い回る。
ポーチの口がひとりでに開いた。わたしの右手にツルギの柄が吸い付く。ツルギには今、刃が生えている。青くきらめく短剣だ。
青獣珠がわたしを導く。
――本質的ではないが、致し方ない――
ツルギを持つ手が、カッと熱くなる。
赤い特攻服がツルギの存在に気付いた。身構えようとするよりも早く、わたしの右手が動いた。
青い刃の切っ先が、赤い特攻服の胸に吸い込まれた。
ズプリ。
硬くて柔らかい肉体に刃が沈み込む。心臓の震えさえ、ツルギ越しに伝わってくる。
わたしが、人を、刺した。
吐き気がするほどの拒否反応。命が消える手応えを知ってしまった。青獣珠もまた同じ。直視できない光を放ちながら絶叫する。
そして。
光景も音も夜気も汗の匂いも、わたしの動悸も青獣珠の悲鳴も、何もかもが消えた。
座標
B(下校途中,4月15日19:14,緋炎狂犬)
↓
A(鈴蘭自宅,4月15日6:40,夢中流血)
わたしはハッとした。
目覚まし時計が騒いでいる。
「ここは……わたしの部屋。さっきのは夢……じゃ、ない……?」
走った後のように鼓動が速い。全身に汗。鳥肌が立っている。
わたしは自分自身を抱きしめた。
夢のはずがない。さわられた感覚がまだ肌に残っている。吐き気がするほど気持ち悪かった。
そして、右手にもなまなましい感触が残っている。人を差した感触が。心臓が止まる瞬間をダイレクトに感じた。
でも、ここはあの路地じゃない。わたしの部屋だ。
目覚まし時計が朝を告げている。カーテンの隙間から光が漏れている。あれから一晩明けたの?
記憶が途切れている。路地で赤い特攻服の男を刺した瞬間に何もかもが消えて、そしてどうなったのか。
「そうだ、日付! ケータイ!」
記憶が飛んでいるなら、今日は四月十六日以降だ。それに、わたしが殺人を犯したならニュースになっているはず。どっちにしても、ケータイですぐにわかる。
わたしは、騒ぎっぱなしの目覚まし時計に触れた。レトロなアラームが黙り込む。ベッドから起き出して、勉強机の上の三日月ストラップのケータイを、カパッと開く。
四月十五日、午前六時四十分。
新着メールが一通。送信者は、寧々ちゃん。
「四月、十五日?」
昨日の日付だ。
〈お嬢おはよー! いつものとこでOK!?〉
頬の赤い黒熊のイラストが目に飛び込んできた。ガツンと頭を殴られたような、驚きというよりも衝撃。
寧々ちゃんのメールはいつも似たような文面だけれど、デコメのキャラクターまで同じことはない。十五日のデコメは頬の赤い黒熊、十四日は梨の妖精、その前はコアラの球団マスコットだった。
わたしは呆然としながら返信する。
〈おはよう。寝坊しないで起きたよ。また後でいつもの場所で〉
三日月ストラップが揺れた。クローゼットの前の制服の下に、青獣珠がある。ツルギの柄の姿をしている。
部屋のドアがノックされた。メイドさんの声がする。
「鈴蘭お嬢さま? お目覚めでしょうか?」
反射的に、わたしは返事をした。
「おはよう。起きてます。着替えてから食堂に行く、と母に伝えて」
「かしこまりました」
昨日と同じ朝? それとも、ただの、いつもと同じ朝? すでに四月十五日を過ごしたと思ったのは、わたしの記憶違い? これはデジャヴ?
わたしの中から違和感が消えない。けれど、母もメイドさんも門衛さんも、何の違和感も持っていないように見える。
家を出て坂を下って、コンビニの前に寧々ちゃんを見付ける。
「おはよう、寧々ちゃん。待たせてごめんね」
「おはよ、お嬢! あたしもついさっき来たとこだよ。ん、寝不足? 顔色、悪くない?」
コンビニから尾張くんが出てくる。
「おす、安豊寺、おはよーさん!」
尾張くんは早速おにぎりをパクついて、寧々ちゃんに頭をはたかれる。いつもと同じ、じゃれ合うケンカ。
順一先輩は一緒じゃなくて、わたしと寧々ちゃんと尾張くんの三人だ。話をしながら、学校へ向かう。それぞれのクラスのこと。瑪都流《バァトル》という暴走族のこと。
隣町の不良グループの話で、体が震えて脚がすくんだ。わたしは人を殺したかもしれない。でも、まだニュースになっていない。
「お嬢、どしたの? 具合悪い?」
「な、何でもない」
不思議そうな寧々ちゃんと尾張くんに、無理やり笑ってみせる。背中を冷や汗が伝った。行こうと言われて、うなずいて、止まっていた脚を動かす。
この先の展開を、わたしは知っている。今日が昨日と同じ日なら、もうすぐ文徳先輩に会える。
そしてやっぱり、襄陽学園の塀のそばで、昨日と同じ情景を見た。
「文徳先輩……」
寧々ちゃんがわたしを肘でつついた。
「お嬢、挨拶しに行っちゃえば?」
「ええっ?」
「そんなにビビらないの」
「だ、だって」
わたしのチカラを文徳先輩に見せた。気持ち悪がられるかもしれない。
でも、どうなんだろう? 癒傷《ナース》を使ったのは、十五日の放課後。今が本当に十五日の朝なら、文徳先輩はまだ何も見ていない。
女子の先輩二人が駆けていって、文徳先輩に挨拶する。文徳先輩はにこやかに受け答えしている。
ふと、文徳先輩の言葉が脳裏をよぎった。困ったことがあったら、頼ってほしいな。そんなふうに言ってくれたのは、ほかならぬ文徳先輩だ。
「わたし、行ってみる」
文徳先輩なら、わたしの不安と恐怖と謎に向き合ってくれるかもしれない。すがるような思いで、わたしはカバンを抱きしめて走り出す。
文徳先輩が、わたしに右手を挙げる。左肩には、ギターケースが引っ掛けられている。
「おはよう」
「お、おはよう、ございますっ」
「そんなに走って、どうしたの? 何か急ぎの用事?」
「あ、いえ、その……」
先輩二人が共犯者みたいに茶々を入れる。文徳先輩が少し困った顔をする。
わたしはどんな会話をした? そう、文徳先輩がギターを弾くと知った。
「文徳先輩、楽器をされるんですね」
「ああ、バンドやってるんだ。ギターだよ」
素晴らしいと言うわたしに、文徳先輩は微笑む。嘘をついている顔じゃない。これは演技なんかじゃない。
本当に、十五日の朝の光景だ。わたしが記憶しているとおりの。
生徒会の話をして、でも少し流れが変わる。最初の十五日の朝には、名前の呼び方の話をした。でも今、わたしはもう「文徳先輩」と呼んでいる。「伊呂波先輩」ではなくて。
そして、もう一つ。
記憶の中の流れとは違う言葉が、わたしをまっすぐに貫いた。
「おい。もしかして、あんたもか?」
低く澄んだ声は、ささやきですら、よく通る。感情が読みづらいはずの声なのに、今のはわかった。
驚いている。
わたしは声の主を見た。銀色の髪、金色の瞳。端正な顔が、眉をひそめている。
煥《あきら》先輩が近付いてきたことに、わたしは目を見張った。記憶と違う。記憶の中の煥先輩は、文徳先輩を置いて学校へ向かった。
「どうして、煥先輩だけ……」
煥先輩はわたしの腕を取って、文徳先輩たちから引き離した。金色の目が、近い距離からわたしを見下ろす。
「あんた、緋炎《ひえん》の狂犬を刺しただろ?」
「えっ」
「違う。刺したじゃない。これから刺すんだ。十五日の夕方、路地の駐車場のそばで」
「どうして、そんな……」
「凶器は、ただのナイフじゃない。青い宝珠のツルギ、青獣珠だろ?」
わたしは声が出ない。驚きすぎて、恐ろしくて。
どうして知っているの? どこで見ていたの? あなたは何者?
矢継ぎ早の質問が頭の中に湧き起こる。けれど、舌が動かない。冷たいくらい整った煥先輩の顔に視線を留め付けられたまま、わたしは声や呼吸まで固まっている。
煥先輩は、自分のブレザーの内側に手を入れた。ボタンを留めないブレザーの内ポケットから取り出されたものに、驚きが重なった。
白銀色の金属。刃のないツルギの柄。幾何学模様が刻まれた鍔《つば》。柄頭に、純白に澄んだ宝珠がきらめいている。
煥先輩がささやいた。
「オレも同じだ」
同じ? わたしは口を開く。のどが干からびでいる。おびえた吐息しか出ない。
煥先輩が言葉を継いだ。
「十五日の朝、胸くそ悪い夢から覚めた後、白獣珠《はくじゅうしゅ》がこの形になってた。意味がわからないまま、夕方まで過ごした。あんたが軽音部の部室に現れて、目の前でチカラを使った。あんたを追い掛けて路地に入ったところで、目撃した。気付いたら、時間が巻き戻されてた」
同じと言った意味がわかった。わたしと同じ時間の流れ方を体験している。そして、その理由は。
「煥先輩も預かり手なんですね?」
やっと声が出た。
煥先輩はうなずいた。白獣珠をブレザーの内側に戻す。
「夕方、部室に来い。逃げ出さなくていい。兄貴たちも預かり手の事情は知ってる。帰りも送ってやる」
煥先輩はきびすを返して、スタスタと歩き出した。文徳先輩に「先に行く」と声をかける。
わたしは立ち尽くしていた。文徳先輩が肩をすくめて、わたしに笑いかける。
「もしかして、あいつと知り合いだった?」
「いえ……あの、ちょっとだけ」
「あいつがおれの弟の煥。普通科の二年だよ。愛想がなくて、悪いな。おれのバンドのヴォーカルなんだけど、歌うとき以外はずっとあの調子なんだ」
「そ、そうなんですね」
「あいつの声、いいだろ? 兄弟なのに、声は全然違う。あいつだけ、ほんとに特別な声してるよ。おれ、あいつの声が好きでさ。よかったら、聴きに来てほしいな」
文徳先輩がわたしのほうを向いた。わたしは笑顔をつくった。頬がギシギシ鳴るような気がした。
「機会があったら、ぜひ。文徳先輩がギターを弾くところも見たいです」
「ありがとう。まあ、そのうちね。じゃあ、おれ、煥を追い掛けるから」
チラッと手を振った文徳先輩が、軽快に駆け出した。
頭の中がぐるぐるしている。わたし以外の預かり手に出会うなんて。その人が文徳先輩の弟だなんて。
「お嬢、よかったじゃん! 名前、覚えてもらってんだね!」
いつの間にか、寧々ちゃんが隣にいた。
尾張くんは、いつになく目を輝かせている。
「煥先輩、カッケェよな。すげぇ強いんだぜ。強すぎて、銀髪の悪魔って呼ばれてんの」
悪魔。どうなんだろう?
あの人も能力者だから、わたしが能力者でも怖がらない。今日の帰りも送ってくれるって言った。悪い人ではないのかもしれない。
だけど、怖い。感情の読みづらい声と瞳。文徳先輩とは正反対の雰囲気。
カバンの中で青獣珠が言った。
――チカラが集い始めた。因果の天秤に均衡を取り戻すために――
何かが起ころうとしている。
中国大陸の古い伝説に四聖獣というものがある。四種類の幻の動物たちだ。
青龍《せいりゅう》。
朱雀《すざく》。
白虎《びゃっこ》。
玄武《げんぶ》。
四聖獣はそれぞれ、方位と季節、元素を司る。
青龍は東と春、元素は木/植物。
朱雀は南と夏、元素は火/炎熱。
白虎は西と秋、元素は金/鉱物。
玄武は北と冬、元素は水/寒冷。
四獣珠には、四聖獣のチカラが宿っている。それ相応の代償を差し出すならば、四獣珠のチカラは人の願いを叶える。
わたしは青獣珠の預かり手。「青龍の安豊寺」の当代能力者。チカラを持つ青獣珠を預かって守るために、預かり手のわたしにもチカラが授けられる。
最終下校時刻まで長いようで短かった。
わたしは図書室から出て、暗い廊下を歩く。プレートに「軽音部室」と書かれたドアの前で、少し待った。
やがてドアが開いた。煥先輩がわたしを見付けて、ふぅっと息を吐いた。
「逃げ出すんじゃねぇかと思ってた」
「え? 逃げ出す?」
「明るいうちに帰れば、路地であんな目に遭わない」
「だって、文徳先輩のケガ、放っておけません」
あの痛みを、また引き受けないといけない。思い出すだけで背筋が震える。でも、やらなきゃ。
失礼しますと言って、わたしは部室に入った。
文徳先輩は床に座り込んでいた。タオルで血を押さえながら、苦笑い。
「ごめん。煥に事情を聞いて、気を付けてはいたんだ。でも、結局やっちまった」
煥先輩、話したんだ。何をどんなふうに言ったんだろう? わたしの知らないことも知っているの?
いや、あれこれ考えるより、治療が先だ。わたしは文徳先輩のそばに座った。タオルをどけて、文徳先輩の手に触れる。
男の人の手だ。わたしの手とは形が違う。一瞬ためらってしまったのは、昨日の路地でのことを思い出したから。
気持ちの悪い手がわたしの素肌の上を這い回った。信じられないくらい強い力で、わたしのカラダをつかんで。
違う。あんなやつと文徳先輩の手を一緒にしちゃいけない。
大丈夫。文徳先輩の手は、乱暴なんかしない。少しも怖くない。
青い光がわたしの手からあふれる。息を吸いながら、痛みを吸い出す。覚悟していても、やっぱり痛い。
文徳先輩が吐息交じりに言った。
「傷が、消えた……」
わたしは文徳先輩から手を離して、おそるおそる顔を上げた。
文徳先輩がニコッとした。ぐるっと見渡すと、いかつい体格の男の人、優しそうな印象の男の人、背が高くて髪が短いキレイな女の人が、三人とも温かい目をしている。
みんな、わたしを怖がってはいない。
少し離れて立つ煥先輩は、わたしと視線が絡むと、金色の目をスッとそらした。
わたしは改めて文徳先輩を見つめた。
「このことは……お願いします。秘密に、しておいてください」
「わかってるよ。まずは、ありがとう。危うくギターが弾けなくなるところだった」
「お役に立てて嬉しいです」
わたしはようやく笑い方を思い出した。Tシャツ姿の文徳先輩に、ドキドキしてしまう。筋肉のついた腕。うっすら透けた静脈。
文徳先輩が部室の面々を紹介した。
「ゴツいのが、ドラムの牛富《うしとみ》。隣の優男が、シンセサイザーの雄《ゆう》。紅一点が、ベースの亜美《あみ》。牛富と亜美が三年で、雄が二年。全員、おれと煥の幼なじみだよ。預かり手の事情はわかってる。煥も、鈴蘭さんと同じだからな」
「白虎の家系が、伊呂波家なんですか?」
「そういうことだ。古い時代には、伊呂波家は名のある武家で、牛富と雄と亜美の家は伊呂波の家臣団だった。今はまあ、上下関係なんてないけどね。安豊寺家は、青龍?」
「はい」
亜美先輩が、座り込んだわたしに手を差し出した。キリッとした感じの美人だ。女性劇団の男役トップスターって感じ。
「初めまして。鈴蘭ちゃんっていうの? 一年なんだ?」
「はい。進学科一年の、安豊寺鈴蘭です」
わたしは亜美先輩の手を取って、立たせてもらった。亜美先輩、やっぱり背が高い。雄先輩と同じくらいある。わたしとは二十センチ以上違うと思う。
文徳先輩が宣言した。
「今日はそろそろお開きにするか。明日のライヴに備えて、今夜は勉強しとけよ」
了解、と牛富先輩と雄先輩が苦笑いした。亜美先輩が肩をすくめる。
楽器の片付けが終わるまで、わたしは待っていた。文徳先輩の姿を目で追ってしまう。
文徳先輩はスピーカーの電源を落として、広げていた楽譜をまとめてカバンに入れた。ギターの弦は一本切れていて、文徳先輩は、それをどうしようかなって顔をして、結局そのまま黒いケースにしまい込む。
生徒会長じゃない姿だ。見たことのない仕草、少し崩した服装。ひょいと首や肩を回したりする、油断しきった動き。
口元の微笑みは、癖になっているのかな? いつも唇の両端が持ち上がっているんだ。本当に笑うときだけ、頬にえくぼができる。
サラサラな栗色の髪。地毛であの色なんだって。肌も白いほうで、目は赤っぽい茶色で、ちょっとハーフっぽい雰囲気もあるんだけれど、切れ長な目元は東洋的な美しさだ。
部室の片付けを終えて、きちんとした制服姿に戻って、文徳先輩が部室の鍵を閉める。
「おれと煥で、鈴蘭さんを送って行くよ。先に、鍵を職員室に返してくる。鈴蘭さんと煥は、生徒玄関で待ってて」
そういうわけで、亜美先輩たち三人とは生徒玄関で別れた。三人とも徒歩通学なんだって。三人とご近所さんで幼なじみの文徳先輩と煥先輩も、同じく徒歩通学だ。