そして問題の金曜日。
なんと未だに次の人は決まっていない。部長いわく、社長がOKを出さないのだそうだ。
どうするつもりなんだ、と思うが、それまで他の社員でなんとか回せ、ということなのだろう。頭が痛い。
昨日、誰もいなくなった就業時間後のフロアで、声を抑えて部長が言った。
「それがの……社長の知り合いを呼びたいみたいなんじゃ」
「はあ? じゃあ求人を出しても仕方ないじゃないですか」
なんのために履歴書をチェックしたり面接したりしたんだ。この会社を志望した人に申し訳ないと思わないのか。すべて無駄な時間と手間だったなんて。
「それならとっととその知り合いを入れてくださいよ」
「いや……それがどうもな……」
部長がさらに音量を落とす。
「……社長の……愛人なんじゃ」
「はああああ?」
俺は天井を仰ぎ見る。
最低だ。
もう辞めたい。
「いや最初は、本当に求人はしとったんで? そのうち、その人が湧いて出ての。ほいでその人が、来月頭から入りたい言うとるらしいんじゃ」
「知りませんよ、そんなこと」
「言うても、社長の決定じゃけえの」
小さな会社だが社長が一代で築いた、と言えば聞こえはいいが、ものの見事なワンマン社長ではある。
けれどまさか、愛人を雇おうとするなんて。
ため息をつく。もうどうでもよくなってきた。
部長が、決まり悪そうに、ぼそぼそと言う。
「それまで元木さんに……て無理よのう」
「無理ですよ。俺もう、これ以上は言えませんよ」
不倫による醜聞で会社を追い出されるように辞めていく元木さんの、代わりに入ってくるのが社長の愛人?
なんの冗談だ。
「ほうよのう。ワシも言えん」
「でしょうね」
「だから、二人でがんばろう」
「そうなりますよね」
そうして二人して、大きくため息をついた。
その愛人が、仕事をちゃんとこなす人なのかどうかは、今は考えないようにしよう。これ以上は、本当に頭が痛くなる。
そして今日、またいつものように仕事時間は過ぎていく。そして五時ぴったりに、元木さんは立ち上がった。
それからすうっと息を吸うと、声を張る。
「お疲れ様でした。お世話になりました」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れー」
男性社員の中から、そういう声が聞こえる。いつもと変わらない。
今日が最後の日だというのに、何事もない。
元木さんは何を気にする風でもなく、更衣室のほうに向かっていく。
そして着替えて出てくると、フロアの入り口のほうでもじもじと立ち止まった。
あれから、昼休憩に一緒に電話番はしたが、特に今日のことには言及しなかった。
というか、わざわざ元木さんの隣に理由もなく座るのもどうかと思って、自分のデスクで弁当を食べ、電話を取った。
くそ。終わらない。あと少しなのに。
こんなことなら、ちゃんと待ち合わせ場所を決めておけばよかった。
俺は顔を上げると言った。
「元木さん、ごめん、あと五分で終わらせるから、外で待っててもらえる?」
「は、はい」
「ごめん」
元木さんが扉を開けて出て行くのを見届けると、腕時計を見る。あと五分。さっき電話が掛かってきたのが悪い。
そんなことを思いながら、なんとか終わらせ、ノートパソコンをシャットダウンさせる間に立ち上がる。
そしてふと顔を上げると、そこにいる人間全員が、俺のほうに視線を向けていた。
「……なに?」
「いえ、あの……」
一人の男性社員が口を開いた。
「課長、元木さん……」
「ああ、これから送別会するんだけど」
数人が、ぽかんと口を開けた。なんだ、その顔は。
「送別会があるなんて、聞いとりませんけど……」
そう言って、顔を見合わせて確認し合っている。
イラッとする。
誰も送別会を開催しようとはしなかったのに、あるわけがない。そしてその状況に、皆、気付いていたのに放置したのだ。
まあ、こんな雰囲気で送別会なんて開催されても、ありがた迷惑になりそうな気もするが。楽しい催しにはならないことは間違いない。
「俺も聞いてない。いつまで経っても送別会の話が出なかったから、二人で行くことにした」
俺の言葉に、また皆が俺のほうに振り返った。
本当は、送別会があろうがなかろうが誘ったわけだが、もうこれでいいだろう。
「は?」
「二人でって……え?」
「課長?」
ふと視線を落とすと、ノートパソコンの画面は真っ暗になっていた。もどかしく、パタンと閉じる。あと三分。
「まさか、狙っとるとかじゃあないですよねえ?」
半笑いで、男性社員が言った。「なんかエロい」とか言っていたヤツだった。
「そうだよ」
イラッとして答えたその言葉に、一瞬、フロアがしんとして。それから。
「えええええ!」
いろんな人が奇声を上げた。
うるさい。
「いや……いいんですか?」
「なにが」
「だって、元木さん……」
そう言って口ごもっている。
他の男と付き合っていた女ですよ、とでも言いたいのだろうか。不倫してた人ですよ、とでも?
だんだんイライラが募ってきた。
もう五分になろうとしている。
「あの年で、元カレいないほうが珍しいだろ」
「いや、元カレというか」
「不倫ですよ?」
横から女性の声がした。あの一番年上の女性社員だった。
なぜか見下したような眼をされている。
俺は一つため息をつくと、言った。
もういい。
どうなろうと、知ったことか。
なんと未だに次の人は決まっていない。部長いわく、社長がOKを出さないのだそうだ。
どうするつもりなんだ、と思うが、それまで他の社員でなんとか回せ、ということなのだろう。頭が痛い。
昨日、誰もいなくなった就業時間後のフロアで、声を抑えて部長が言った。
「それがの……社長の知り合いを呼びたいみたいなんじゃ」
「はあ? じゃあ求人を出しても仕方ないじゃないですか」
なんのために履歴書をチェックしたり面接したりしたんだ。この会社を志望した人に申し訳ないと思わないのか。すべて無駄な時間と手間だったなんて。
「それならとっととその知り合いを入れてくださいよ」
「いや……それがどうもな……」
部長がさらに音量を落とす。
「……社長の……愛人なんじゃ」
「はああああ?」
俺は天井を仰ぎ見る。
最低だ。
もう辞めたい。
「いや最初は、本当に求人はしとったんで? そのうち、その人が湧いて出ての。ほいでその人が、来月頭から入りたい言うとるらしいんじゃ」
「知りませんよ、そんなこと」
「言うても、社長の決定じゃけえの」
小さな会社だが社長が一代で築いた、と言えば聞こえはいいが、ものの見事なワンマン社長ではある。
けれどまさか、愛人を雇おうとするなんて。
ため息をつく。もうどうでもよくなってきた。
部長が、決まり悪そうに、ぼそぼそと言う。
「それまで元木さんに……て無理よのう」
「無理ですよ。俺もう、これ以上は言えませんよ」
不倫による醜聞で会社を追い出されるように辞めていく元木さんの、代わりに入ってくるのが社長の愛人?
なんの冗談だ。
「ほうよのう。ワシも言えん」
「でしょうね」
「だから、二人でがんばろう」
「そうなりますよね」
そうして二人して、大きくため息をついた。
その愛人が、仕事をちゃんとこなす人なのかどうかは、今は考えないようにしよう。これ以上は、本当に頭が痛くなる。
そして今日、またいつものように仕事時間は過ぎていく。そして五時ぴったりに、元木さんは立ち上がった。
それからすうっと息を吸うと、声を張る。
「お疲れ様でした。お世話になりました」
そう言って、ぺこりと頭を下げる。
「お疲れ様でしたー」
「お疲れー」
男性社員の中から、そういう声が聞こえる。いつもと変わらない。
今日が最後の日だというのに、何事もない。
元木さんは何を気にする風でもなく、更衣室のほうに向かっていく。
そして着替えて出てくると、フロアの入り口のほうでもじもじと立ち止まった。
あれから、昼休憩に一緒に電話番はしたが、特に今日のことには言及しなかった。
というか、わざわざ元木さんの隣に理由もなく座るのもどうかと思って、自分のデスクで弁当を食べ、電話を取った。
くそ。終わらない。あと少しなのに。
こんなことなら、ちゃんと待ち合わせ場所を決めておけばよかった。
俺は顔を上げると言った。
「元木さん、ごめん、あと五分で終わらせるから、外で待っててもらえる?」
「は、はい」
「ごめん」
元木さんが扉を開けて出て行くのを見届けると、腕時計を見る。あと五分。さっき電話が掛かってきたのが悪い。
そんなことを思いながら、なんとか終わらせ、ノートパソコンをシャットダウンさせる間に立ち上がる。
そしてふと顔を上げると、そこにいる人間全員が、俺のほうに視線を向けていた。
「……なに?」
「いえ、あの……」
一人の男性社員が口を開いた。
「課長、元木さん……」
「ああ、これから送別会するんだけど」
数人が、ぽかんと口を開けた。なんだ、その顔は。
「送別会があるなんて、聞いとりませんけど……」
そう言って、顔を見合わせて確認し合っている。
イラッとする。
誰も送別会を開催しようとはしなかったのに、あるわけがない。そしてその状況に、皆、気付いていたのに放置したのだ。
まあ、こんな雰囲気で送別会なんて開催されても、ありがた迷惑になりそうな気もするが。楽しい催しにはならないことは間違いない。
「俺も聞いてない。いつまで経っても送別会の話が出なかったから、二人で行くことにした」
俺の言葉に、また皆が俺のほうに振り返った。
本当は、送別会があろうがなかろうが誘ったわけだが、もうこれでいいだろう。
「は?」
「二人でって……え?」
「課長?」
ふと視線を落とすと、ノートパソコンの画面は真っ暗になっていた。もどかしく、パタンと閉じる。あと三分。
「まさか、狙っとるとかじゃあないですよねえ?」
半笑いで、男性社員が言った。「なんかエロい」とか言っていたヤツだった。
「そうだよ」
イラッとして答えたその言葉に、一瞬、フロアがしんとして。それから。
「えええええ!」
いろんな人が奇声を上げた。
うるさい。
「いや……いいんですか?」
「なにが」
「だって、元木さん……」
そう言って口ごもっている。
他の男と付き合っていた女ですよ、とでも言いたいのだろうか。不倫してた人ですよ、とでも?
だんだんイライラが募ってきた。
もう五分になろうとしている。
「あの年で、元カレいないほうが珍しいだろ」
「いや、元カレというか」
「不倫ですよ?」
横から女性の声がした。あの一番年上の女性社員だった。
なぜか見下したような眼をされている。
俺は一つため息をつくと、言った。
もういい。
どうなろうと、知ったことか。