一応知らせるべきかと思って、気は進まなかったけれど、母には電話をした。
 久々の母の声は、懐かしいとは思ったけれど、嬉しいとは思わなかった。

「ええ? 美代子が?」

 驚いたように声を上げて、そして特に悲しげな声音も出さず、いやむしろ得意げにこう言った。

「まあ、あの子は不規則な生活ばっかりしとったけえね。それでじゃわ」

 知った風な口をきくな、と思った。

 私はすぐさま電話を切った。葬儀についてもなにも知らせなかった。何度か電話が掛かってきたけれど、取らなかった。

 美代ちゃんの携帯電話にあったアドレスや、名刺ホルダーから、できるだけの人に連絡をした。親戚は一人も呼ばなかった。
 きっと彼女もそれを望んではいないだろうから。

 それでもたくさんの人が来てくれて、泣いてくれた。
 美代ちゃんは、それで満足だったと思う。

 後日、マンションを訪ねてきた母は、私に怒鳴りつけた。

「何回も電話したじゃろ! なんで葬式のことを私に言わんのん! せん(しない)のんか思いよったわ! 親戚も誰も知らんで、なのにいろいろな人に聞かされて、ええ面の皮よ!」

 私は黙って扉を閉めた。

「ちょっと! 開けんさい! 話はまだ終わっとらんよ!」

 何度もインターホンを鳴らし、扉の前でぎゃあぎゃあとわめいている。
 隣の部屋の人が、「うるせえ!」と怒鳴りつけているのが扉の向こうで聞こえ、それで退散したようだった。

 それ以来、母には会っていない。
 大学に入る前に美代ちゃんと養子縁組しておいてよかったと、心の底から思った。

          ◇

 私は美代ちゃんのただ一人の娘ということで、彼女の遺産のすべてを受け取った。
 結局私は、美代ちゃんの何もかもを奪ってしまったのかもしれない、と思う。
 あの通帳の数字はずいぶん減っていたけれど、それは私の学費のためにかなり使ったせいなのではないだろうか。

 そして私は美代ちゃんの一番大切にしていたものも、受け取っている。
 本当に手にしていいのだろうか、という思いも拭えない。けれど捨て去る気にもなれない。誰かに渡したくもない。

 どうするべきなのか、未だに答えは出ていない。
 誰かに相談したい。けれど誰に相談すればいいのかわからない。

「相談事って、けっこう難しいですよね」

 私は大学を卒業して、働きだした。
 けれどもう美代ちゃんに言った、『大学行って、卒業して、ええ会社に入って、ほいで楽させてあげる』選択肢は失われてしまったから、いい会社は狙いもしなかった。

 その仕事先での飲みで、ぽろりとそんなことが口をついて出てきた。少し酔っていたからつい弱音を吐いてしまったのだ。

 目の前にいた斎藤さんは、うん? と顔を上げる。
 私は慌てて、でも平静を装いながら取り繕う。

「ああ、いえ、悩みって、聞かれとうなかったりもするし、見当違いのことを言われたりもするし、案外、ラジオとかの相談コーナーとかのほうがええんじゃないかな、って思うて」

 実は正直、ハガキを送ってみようかと真剣に考えたこともあるのだ。
 他の人の悩みにけっこう的を射た回答をしているのを聞いて、もし相談したらどんな答えが返ってくるのだろう、と考えた。
 結局、ハガキやファックスやメールを送るところまではいかなかったけれど。

「悩みなら、ワシが聞いちゃろうか?」

 笑いながら斎藤さんが言う。
 私は胸の前でひらひらと両手を振った。

「いえ、私の悩みの話じゃないんです。ただ、一般的に」

 斎藤さんはいい人だけれど、込み入った話をする対象ではなかった。
 すると斎藤さんは言った。

「相談事かあ。ワシじゃったら……ほうじゃのう、あやかママに相談しとるかのう」

 そう言って、斎藤さんは苦笑した。そしてチビチビと日本酒を口につけている。
 あやかママ。『エスケープ』のママ。お客さんがたくさんついていて、流川でとても人気なママ。
 相談事なんて、ホステスに言うものなのだろうか。もっと身近な、それでいて正確な答えが返ってきそうな、信頼できる社会的地位のある人に言うものではないのだろうか。

「なんちゅうか、絶対に否定されんって確信があるんじゃ。あやかママは割とポーッとしとるところがある人じゃけえ、それがええんじゃ。しっかり生きとる人にゃあ、かえって相談事はできんもんじゃ」

 なるほど、確かに。

 否定されるのは、つらい。
 私の話だって、きっと、「育ててくれた親なのに」とか「愛情があるからこそ叱ったに違いないのに」とか言われて、「家出するなんて」「グレるなんて」と説教されてしまうだろう。

「ほいでも、高校の学費は出してくれたんじゃろ?」

 そう言われたときには、すぐさま高校を辞めるべきだった、借りなど作るべきではなかった、と思ったものだった。
 だから、すぐには無理だったけれど、高校の学費は両親に突き返し済みだ。
 それでも、今からでもいい、帰って謝ったほうがいい、だなんてしたり顔で何度言われたか知れない。

 冗談じゃない。そんなことするもんか。

 お前が悪い、お前がしっかりしていれば、お前が折れれば済む話、とは言われたくない。
 そう言われると、なんにも知らないくせに、と叫び出しそうな自分が出てきて、嫌になる。
 だから誰にも言えなくなる。そうして澱のように暗い感情が胸の奥底に沈んでいく。積もり積もって吐き出せなくなる。

 そんなときに、ただただ、うなずいてくれる人がいるだけで、どれだけ救われるだろうか。
 きっと、社会的地位なんて、関係ないのだろう。
 否定せずに聞いてくれる、それができる人がどれだけありがたくて、そして貴重か。

「人間、そんなに強くはないけえの。なにもかも正しゅうは生きられんけえのう。そりゃあ正しゅうあろうとするんは崇高じゃ思うで。ほいでもやっぱり弱っとるときにゃあ、『ええんじゃないの、それくらい』って言うて欲しいんじゃ。あ、そりゃあ犯罪なんかは止めんにゃいけんけどの」
「わかりますよ」

 私がそう言うと、斎藤さんはほっとしたように息を吐きだした。

「甘えじゃって言われたらそうなんじゃけどの。ほいでもやってられんときもあるけえのう」
「そうですよね」

 私は深く深く、うなずいた。

「正しさは、時に刃になるもんじゃわ」
「詩的ですね」
「あやかママは、そういうんを聞き出すんが上手いっちゅうか、いつの間にか弱音を吐いてしもうとるんよ」
「そうなんですか」
「相談するんなら、あやかママみたいな人がええわ」

 そう言って、斎藤さんは笑う。

 第二新天地公園に出るという妖精。
 ばかばかしいと思われるかもしれないけれど。
 その妖精に、今の私の悩み事を相談してみたい、と思う。
 果たして、あやかママは私の前にも現れてくれるだろうか。