「それはこちらの台詞だねえ」

 永犬丸巻緒が木内のカッターナイフを持ったまま振りかぶった手を後ろから止めた。
 
「くそっ幽霊のくせに!」
 
「うんうん」

 巻緒はニコニコと笑う。
 
「そうそう俺は幽霊。花代ちゃんの宇空間にかろうじて住まう人間の残滓。花代ちゃんが外で俺に話しかけたら不審な目で見られちゃう。地に足をつけることすら叶わない」

 永犬丸巻緒は幽霊だ。
 ここに肉体はない。
 花代と巻緒の宇空間が繋がった例の事故以来、彼は幽霊になって花代の傍に付き従っていた。
 
「でも亜空間じゃ自由自在だよ。何せ幽霊に人は干渉できないと君たち常識ある子は思ってしまうから。君は俺に干渉できない。しかし俺に常識はない。だから俺は君に干渉するよ、木内ちゃん」

「……ちくしょう」

 木内は俯いた。
 
「そう。木内って言うの、その子」

 少女たち二人を亜空間の外に放り投げて念のために裂け目を閉じて、上津役花代はどうでも良さそうにそう言った。
 
「花代ちゃんは少しくらい周りの人に興味を持とうね」

 巻緒はついつい注意を口にした。
 
「あなたみたいな幽霊に二十四時間まとわりつかれてるのよ? 他人を気にかけろなんて無理を言わないで欲しいんだけど」
 
「その点についてはごめんねと言わざる得ないねえ」
 
「木内さん。覚えました……せいぜい仲良くしましょうか? お友達いない同士」
 
「うるさい! 私はただ……!」

 木内は激高した。
 花代の暴言にいらだった。
 
「動機とか、どうでも良いの」

 ぴしゃりと花代は木内の激高を制した。
 
「友達と仲良くしきれないことくらい誰にだってあるものね。どっか行っちゃえって思うのなんて普通のことよ」

 まるで見透かしたように木内の心に花代はずけずけと入っていく。
 木内は言葉に詰まる。
 
「ただ私は困るのよ。私が困るのよ。あなたみたいな人に簡単に亜空間と宇空間を乱用されるのは困るの。今この町でそれに対処できるのは私くらいなのだから」

 花代は続けた。
 巻緒はそれを複雑な思いで見守った。
 
「あなたが友達を亜空間に閉じ込めるほどの何かを抱えているとかどうでもいいの。そんなことで私の平穏を脅かさないでちょうだい、木内さん」

 上津役花代は木内の言葉を聞かずに一方的にまくし立てた。
 
「もう一度言いましょう。私の平穏を脅かさないで。そうでないと……この亜空間にあなたを閉じ込めなければならなくなります」

 上津役花代は淡々と告げる。
 
「閉じ込める……そんなこと……」
 
「出来る。というかしないといけないの。警察の上の方、直緒さんの上司の上司のそのまた上司。この方は巻緒の生前のお知り合いで異空間の諸々についてご存じよ。だけどそれを公表はしないと決断している。だから私は泣く泣く私刑を執行せざる得ないのよ。あなたはこの世界に何万人といる家出人の一人になって永遠にこの亜空間をさまようの」

 上津役花代は木内に手を差し伸べながらそう言った。
 
「まるで鏡の向こう側のように、隣の世界に誰かがいる。そんなことを想像できるような年頃の子供以外にあなたの行く先なんて誰にも想像できなくなるの。さあ選んでちょうだい木内さんとやら。お友達を亜空間に封じ込めたくなるくらいかったるい現実か、ひとりで永久にさまよう寂しい非現実か。お好きな方をどうぞ」
 
「…………」

 そして木内は選んだ。

 現実を選んだ。

 花代がどう思ったかは知らないが巻緒はそれにホッとする。
 花代が誰かを非現実に閉じ込めなくて済んだことにホッとする。

 花代は巻緒がかつて背負っていた異空間問題の対処を担っている。
 それは本来、巻緒がやるべき事柄だった。
 そして対処の過程に現れるのはいつだってロクな事情も知らない普通の人間で、巻緒はそのたびに胸を痛める。
 
 花代を巻き込んだこと。自分が限定的にしか力を持たないこと。
 しかし花代は淡々とことをこなす。
 痛みなどないかのように、亜空間を歩いて行く。


 
「……お疲れさん」

 直緒が炭酸を花代に奢る。
 
「どうもです」

 花代はそれをちびちび飲むのが好きだ。
「なんかなあ……いつも信じがたいんだよなあ……」

 直緒は病床で眠り続ける兄を眺めながらぼんやりと呟く。
 仕事終わりに病院で一杯のジュースを飲む。それが花代と直緒の習慣になっていた。
 
「ここにいるはずの巻緒が起きてるんだよな」
 
「いるよー」

 巻緒が手を振るが、直緒には見えていない。現実空間で巻緒が見えるのは宇空間を共有する花代だけである。
 
「うん。今ちょうど直緒さんの頭の後ろで犬の耳を作ってる」
 
「ああうん。それ間違いなく巻緒だわ」

 そう言って直緒は何もない背後の空間に本気で殴りかかった。
 巻緒はひょいと避けてケラケラと笑った。
 幽霊である巻緒に避ける必要などないのだが、巻緒が避けるのが生前からの単なるクセなのか弟へのせめてもの真摯な振る舞いなのか、花代には分からない。
 
「ったくシリアス丸潰す兄だぜ……」
 
「いつもありがとうね、直緒さん」
 
「何だ急に」
 
「別になんとなく」
 
「ふうん? なんか良いことでもあったのか?」
 
「この私にお友達が出来たわ。異空間干渉者同盟よ。木内()()ちゃんっていうの」
 
「そいつは何より」

 直緒は嬉しそうに笑ってくれた。
 花代も少しだけ笑った。