沖田さんが右手を空にかざした。骨と静脈が浮いた手の甲に、赤黒く、今にもつながりそうな円環の紋様がある。
「もうすぐボクは妖になる」
沖田さんはひっそりと微笑んでいた。
「どうして円環のチカラがほしいと願ったんですか?」
「時の流れが逆になる夢を見たんだ。夢の中で、死の間際にボクは願う。みんなを守りたい、そのためなら何だってできる。そして死んだと思ったんだけど、目が覚めたら、二股の尻尾を持つヤミがボクのそばにいて、ボクは生きていた」
「時をさかのぼったんですか?」
「さぁね。ボクの願いがヤミを猫又に変えて、ヤミが仲立ちになってボクは妖のチカラを手に入れた。どっちがどどう働きかけたのか、ごちゃごちゃに混ざってて、わかんないよ。無茶したくせに、ボクは結局このざまで、仲間を死なせちまったし」
時司である斎藤さんが言っていた。歴史の結果は変わらない、と。途中経過が少しくらい変化したとしても、死ぬべき人がそこで死ぬというさだめは揺るがないんだ。
沖田さんが少し咳き込む。ラフ先生はひょいとかがんで、沖田さんの背中をさすった。
「痛々しいな、オマエ。見てんのがつらい」
ふと、そのときだった。
鳥の羽ばたきが聞こえた。
沖田さんが顔を上げる。その視線に誘導されて、アタシも空を見る。一羽の白いハトが舞い降りてきた。きっと斎藤さんの伝書バトだ。脚に手紙がくくり付けられている。
ハトは縁側に降り立った。ラフ先生がハトの脚から手紙をほどく。役目を終えたハトは、すぐさま空へ飛び立っていった。
手紙に書かれているのは、毛筆の崩し字だった。
「読めねえ」
ラフ先生が一瞬で放棄する。アタシは少し頑張った。
「斎……、一? 差出人の名前、斎藤一、ですよね?」
「ストーリーの展開からして、そうだろうな」
沖田さんが手紙を手に取った。
「うん、斎藤さんからだよ。新政府軍が……江戸を総攻撃予定? いや、これは警戒を告げる手紙じゃなくて、総攻撃が撤回されたって書いてある。事、成リテ候? 勝麟太郎が、新政府軍と対話して、江戸城を……明け渡した……?」
「あっ、それって! 勝海舟と西郷隆盛《さいごう・たかもり》の会談ですね!」
新撰組のことを知らないアタシでも、その会談のことは知っている。中学校の歴史の授業で勉強した。
一八六八年、京を手中に収めた新政府軍は、勢いに乗って、江戸の旧幕府軍を殲滅《せんめつ》しようとする。
殲滅作戦が決行されれば、江戸は火の海だ。百五十万人の住民の命が危機にさらされる。旧幕府軍では、意見が二分した。新政府軍と戦おうというグループ。戦いを回避しようというグループ。
結論として、旧幕府軍は、話し合いによる解決を望んだ。新政府軍との話し合いに臨んだのが勝海舟。対する新政府軍の代表者が薩摩《さつま》の西郷隆盛。
江戸の薩摩藩邸で、話し合いはおこなわれた。そして、江戸では戦わない、という約束が成立。旧幕府軍は江戸城を明け渡した。
「でも、待ってください。それじゃ、新撰組が甲陽鎮撫隊になって甲州へ行った意味は何だったんですか? 新政府軍を防ぐためだったんでしょう? 甲陽鎮撫隊は、今どうなっているんです?」
沖田さんが蒼白になっている。手紙を持つ手が震えている。
「斎藤さんの手紙には、これだけしか……みんなの状況は何も書かれてない」
ラフ先生は額を押さえた。
「勝海舟が甲陽鎮撫隊を派遣した目的は、史実としては知ってるけど、ここで言っちまうのは時期尚早だろうな。しかも、斎藤と勝がつながってるとなると、どうなんだろう?」
「史実とは違うんですか?」
「違う、と断言することはできねぇが、少なくとも、現存する資料には、斎藤が勝のスパイだなんて記録はねぇよ。誠狼異聞のオリジナル設定だ。しかも、斎藤にとって、めちゃくちゃ残酷な設定になってる」
沖田さんがこぶしを握った。
「行かなきゃ。みんなのところに」
沖田さんは立ち上がろうとした。でも、激しい咳の発作に襲われて、口元を覆って倒れ込んだ。ごぼっ、という音が、咳に交じる。ポタポタと、血のしずくが手のひらから落ちた。
「そんな体調じゃ無理です」
ようやく咳が収まっても。沖田さんは立ち上がれない。ラフ先生が沖田さんを布団まで運んだ。血で汚れた沖田さんの口元を、アタシが拭う。
沖田さんは、すがるような目をした。
「ミユメとラフにお願いがある。甲州へ行って、調べてきて。新撰組のみんなが、今どこでどうしてるのか。調べて、ボクに教えて」
「新撰組の状況がわかったら、どうするんですか? まさか、合流するつもりですか?」
沖田さんは微笑んだ。
「みんなと一緒に戦いたいんだ。置いていかれて不安なのは、もうイヤだ。最期にみんなの役に立ちたい。あと一回だけ、大きな戦闘もこなせるよ。そのために力を温存したい。だから、代わりに調べてきて。お願い」
ラフ先生は、庭のほうを向いていた。
「障子《しょうじ》、開けとくぞ。桜を見ながら、土方の下手な俳句でも思い出してろ。ミユメ、行こう。今の沖田は見るに忍びない」
アタシは胸が詰まって、声が出なくかった。ただ、沖田さんに手を振った。
「もうすぐボクは妖になる」
沖田さんはひっそりと微笑んでいた。
「どうして円環のチカラがほしいと願ったんですか?」
「時の流れが逆になる夢を見たんだ。夢の中で、死の間際にボクは願う。みんなを守りたい、そのためなら何だってできる。そして死んだと思ったんだけど、目が覚めたら、二股の尻尾を持つヤミがボクのそばにいて、ボクは生きていた」
「時をさかのぼったんですか?」
「さぁね。ボクの願いがヤミを猫又に変えて、ヤミが仲立ちになってボクは妖のチカラを手に入れた。どっちがどどう働きかけたのか、ごちゃごちゃに混ざってて、わかんないよ。無茶したくせに、ボクは結局このざまで、仲間を死なせちまったし」
時司である斎藤さんが言っていた。歴史の結果は変わらない、と。途中経過が少しくらい変化したとしても、死ぬべき人がそこで死ぬというさだめは揺るがないんだ。
沖田さんが少し咳き込む。ラフ先生はひょいとかがんで、沖田さんの背中をさすった。
「痛々しいな、オマエ。見てんのがつらい」
ふと、そのときだった。
鳥の羽ばたきが聞こえた。
沖田さんが顔を上げる。その視線に誘導されて、アタシも空を見る。一羽の白いハトが舞い降りてきた。きっと斎藤さんの伝書バトだ。脚に手紙がくくり付けられている。
ハトは縁側に降り立った。ラフ先生がハトの脚から手紙をほどく。役目を終えたハトは、すぐさま空へ飛び立っていった。
手紙に書かれているのは、毛筆の崩し字だった。
「読めねえ」
ラフ先生が一瞬で放棄する。アタシは少し頑張った。
「斎……、一? 差出人の名前、斎藤一、ですよね?」
「ストーリーの展開からして、そうだろうな」
沖田さんが手紙を手に取った。
「うん、斎藤さんからだよ。新政府軍が……江戸を総攻撃予定? いや、これは警戒を告げる手紙じゃなくて、総攻撃が撤回されたって書いてある。事、成リテ候? 勝麟太郎が、新政府軍と対話して、江戸城を……明け渡した……?」
「あっ、それって! 勝海舟と西郷隆盛《さいごう・たかもり》の会談ですね!」
新撰組のことを知らないアタシでも、その会談のことは知っている。中学校の歴史の授業で勉強した。
一八六八年、京を手中に収めた新政府軍は、勢いに乗って、江戸の旧幕府軍を殲滅《せんめつ》しようとする。
殲滅作戦が決行されれば、江戸は火の海だ。百五十万人の住民の命が危機にさらされる。旧幕府軍では、意見が二分した。新政府軍と戦おうというグループ。戦いを回避しようというグループ。
結論として、旧幕府軍は、話し合いによる解決を望んだ。新政府軍との話し合いに臨んだのが勝海舟。対する新政府軍の代表者が薩摩《さつま》の西郷隆盛。
江戸の薩摩藩邸で、話し合いはおこなわれた。そして、江戸では戦わない、という約束が成立。旧幕府軍は江戸城を明け渡した。
「でも、待ってください。それじゃ、新撰組が甲陽鎮撫隊になって甲州へ行った意味は何だったんですか? 新政府軍を防ぐためだったんでしょう? 甲陽鎮撫隊は、今どうなっているんです?」
沖田さんが蒼白になっている。手紙を持つ手が震えている。
「斎藤さんの手紙には、これだけしか……みんなの状況は何も書かれてない」
ラフ先生は額を押さえた。
「勝海舟が甲陽鎮撫隊を派遣した目的は、史実としては知ってるけど、ここで言っちまうのは時期尚早だろうな。しかも、斎藤と勝がつながってるとなると、どうなんだろう?」
「史実とは違うんですか?」
「違う、と断言することはできねぇが、少なくとも、現存する資料には、斎藤が勝のスパイだなんて記録はねぇよ。誠狼異聞のオリジナル設定だ。しかも、斎藤にとって、めちゃくちゃ残酷な設定になってる」
沖田さんがこぶしを握った。
「行かなきゃ。みんなのところに」
沖田さんは立ち上がろうとした。でも、激しい咳の発作に襲われて、口元を覆って倒れ込んだ。ごぼっ、という音が、咳に交じる。ポタポタと、血のしずくが手のひらから落ちた。
「そんな体調じゃ無理です」
ようやく咳が収まっても。沖田さんは立ち上がれない。ラフ先生が沖田さんを布団まで運んだ。血で汚れた沖田さんの口元を、アタシが拭う。
沖田さんは、すがるような目をした。
「ミユメとラフにお願いがある。甲州へ行って、調べてきて。新撰組のみんなが、今どこでどうしてるのか。調べて、ボクに教えて」
「新撰組の状況がわかったら、どうするんですか? まさか、合流するつもりですか?」
沖田さんは微笑んだ。
「みんなと一緒に戦いたいんだ。置いていかれて不安なのは、もうイヤだ。最期にみんなの役に立ちたい。あと一回だけ、大きな戦闘もこなせるよ。そのために力を温存したい。だから、代わりに調べてきて。お願い」
ラフ先生は、庭のほうを向いていた。
「障子《しょうじ》、開けとくぞ。桜を見ながら、土方の下手な俳句でも思い出してろ。ミユメ、行こう。今の沖田は見るに忍びない」
アタシは胸が詰まって、声が出なくかった。ただ、沖田さんに手を振った。