壮悟くんはカッと目を見開くと、麗先生の白衣の胸倉をつかんだ。
「わかったような口、利くなよ。いちいちムカつくんだよ、あんた」
 朝綺先生が何か言いかけた。足を踏み出す。少しよろける。壮悟くんが、麗先生の頭越しに朝綺先生を見た。キッパリとにらむ。
 止める間もなかった。
 壮悟くんは麗先生を壁に押し付けた。そのままの勢いで、噛み付くように、壮悟くんは麗先生の唇を奪った。
 時間が止まったように感じた。長すぎる一瞬だった。
 麗先生が壮悟くんを突き飛ばした。白衣がひるがえる。麗先生が、こっちを向いた。朝綺先生を見付けてしまった。
 口を押さえた麗先生の大きな目から、どっと涙があふれる。言葉はない。麗先生はきびすを返して、走り去っていく。
 壮悟くんは空っぽな表情をしていた。まなざしは、どこでもない場所に向けられている。
 低く押し殺された声が廊下を這った。
「おい、壮悟」
 朝綺先生はこぶしを握りしめていた。腕がわなわな震えている。
 壮悟くんは顔を上げた。歪んだ笑いが、口元に浮かんだ。
「悔しい?」
「てめぇ、何のつもりだ?」
 抑え込まれた口調に、すさまじい怒気がにじむ。
「見りゃわかるだろ。ただの八つ当たり」
「何だと?」
「でも、魔女も万能じゃないね。あんた、回復して一年だっけ? リハビリって、ずいぶん時間かかるんだね。そんな体じゃ悔しいだろ? 自分の女の危機だってのに、何もできなくて。そのざまで、ちゃんと満足させてやって……」
「ふざけんなっ!」
 突然の怒号に、壮悟くんはビクリと震えた。
 朝綺先生は再び声を低く抑え込む。
「皮もむけちゃいねぇガキが、ナメんなよ。からかってるつもりか? 人の女に手ぇ出しやがって。さっきの一回、どんだけ価値があると思ってんだ。麗は、ガキが勝手にしていいような薄っぺらい女じゃねぇんだよ」
 壮悟くんが歯を食いしばった。
「か、カッコつけんなよ。今さら」
「粋がってんじゃねえ。教えてやるよ。女を泣かせるってのは、あんな幼稚なやり方のこと言うんじゃねぇんだ。ダセェんだよ」
「う、うるさい。あんたなんか、どうせ口先だけじゃん」
「上等だろ。てめぇ程度のガキ一匹ひねりつぶすくらい、口先ひとつで十分なんだぜ。惚れた女を泣かすのもいかせるのも、口と舌でことは足りる。ガキにゃあわからねえだろうが」
「…………」
「次、麗に手出ししやがったら、容赦しねえ。どんな方法を使ってでも思い知らせてやるぞ、このクソガキが」
 圧倒的だった。
 一歩も動かない朝綺先生の静かな口調で語られる怒りはあまりに圧倒的で、後ろ姿を見守るだけのあたしでさえ、息をするのも忘れた。壮悟くんは完全に固まっている。
 朝綺先生がゆっくり歩き出す。一歩ずつ、引きずりながら踏み出して、確実に足を交わして、歩いていく。動けない壮悟くんのそばを通り過ぎる。
 どっちも、声をかけない。視線も合わせない。
 ぱたっ。
 ぱたっ。
 ぱたっ。
 ぱたっ。
 朝綺先生の足音を、あたしは数えていた。朝綺先生が廊下の角を曲がって、足音が聞こえなくなるまで。
 壮悟くんは、いつしかうつむいていた。唇を、ごしごしと、何度も手の甲でこすった。
 あたしの足が、急に動き出した。壮悟くんは顔を上げた。あたしは壮悟くんと目を合わせなかった。壮悟くんの脇を駆け抜けて、あたしは朝綺先生を追いかけた。