風坂先生がメガネを外して、その手で両目の涙を拭った。切れ長な目尻に、カラスの足跡形の笑いじわ。あたしの大好きな笑顔がいつも以上にステキだ。悲しみがにじんでいた笑顔は今、本当に輝いている。
「笑音さん、ぼくは昨日、間違ったことを教えたね。ヘルパーは『できなくなっていく』人間を見守る仕事だ、って。違うよね。朝綺にはこれから、できるようになってもらわないといけない。リハビリ頑張れよ、朝綺。ぼくは容赦しないからな」
 朝綺さんが吐息で笑った。
 バ・ァ・カ。
 朝綺さんの病気、筋ジストロフィーは、不治の病と言われてきた。筋ジストロフィーの患者さんのお世話をすることは、死と向き合うことだった。患者さんの能力の喪失を目撃することだった。
 絶望を希望に変えたのは麗さんと、麗さんが一途に挑み続けた医療技術だ。ここから新しい未来が始まっていく。
 バタバタと、いくつもの足音が聞こえた。何人もの誰かが研究棟の廊下を走ってくる。ぷしゅっと音を立ててドアが開いた。振り返ると、白衣の人たちが息を切らして立っていた。
「か、風坂准教授、何か、あったのですかっ!? 遠隔の計器に、突然、異常な数値がっ!」
 准教授と呼ばれた麗さんが泣き止むより早く、風坂先生が笑顔で口を開くより先に、白衣の皆さんは事情を察して雄たけびを上げた。
「お、おおぉぉーっ!」
「患者の意識が戻ってるーっ!」
「准教授、やりましたねーっ!」
 万歳したり踊り出したり、麗さんの部下さんたちはにぎやかだ。よかった。麗さん、仲間がいたんだ。一緒に働いて一緒に喜んでくれる人たち。
 きっと麗さんはこれからまた大変になるよね。先端医療の研究って意味でも、恋人の看病って意味でも。
 麗さんが顔を上げた。笑顔だった。
「ありがと、笑音」
 見とれちゃうくらい、麗さんの笑顔はキレイでかわいくて、あたしは思わずギュッとハグした。
「ほんとステキです! 麗さん最高!」
 麗さんはあたしの腕の中で、一瞬、体を硬くした。すぐに力が抜ける。あたしの背中に、麗さんの腕が回った。麗さんもあたしをギュッとしてくれた。
 風坂先生が笑いながら、あたしたちをからかった。
「女の子同士の友情って、かわいい絵になるね。でも笑音さん、麗にあんまりくっつくと、朝綺が焼きもちを妬くよ? こいつ、動けないんだから」
 朝綺さん、また「バ・ァ・カ」って、ささやいたかな? 遠慮なく憎まれ口を叩く姿を、早く見てみたい。